更新日 2013.10.9
生来のアマチュア天文家で、自営の菓子店を辞めて昭和33年(1958)44歳で五藤光学に入社し、平成4年(1992)年に78歳で退職するまでの34年間、五藤光学を支えつづけたのが笹川重雄さんです。
笹川さんは、大正3年(1914)、父重栄と母カツの間に、二人兄弟の長男として埼玉県本庄市に生まれました。笹川家は、新潟で代々大庄屋を勤めた家柄で、父重栄の実家は、驚くなかれ味方村の「笹川邸」です。母カツは、北海道の出身で、親戚の縁で結婚しました。父重栄は、商売を何度も替えながら、やはり親戚の手伝いで埼玉県の本庄にきました。熊谷、深谷にも伊勢屋菓子店がありますが、当時、本庄の伊勢屋には従業員が60人もいたそうです。
長男の重雄さんと、次男の一栄さんはとても仲が良く、ボール紙にレンズを付けて望遠鏡を作っていたそうです。重雄さんは、次第に天文にのめり込み、二人の間では、重雄さんが勉学、一栄さんは家業を継ぐことで納得していたようです。
↑(写真)新潟県西蒲原郡味方村の笹川邸
ところが、一栄さんは昭和12年に入隊し、昭和15年に25歳の若さで戦死します。重雄さんは、昭和15年に入隊し、昭和17年に復員しました。家業を継ぐはずだった一栄さんが亡くなりましたので、重雄さんが継ぐことになります。しかし、配給が滞り家業を続けることが難しく、重雄さんは、一時、群馬県太田市の中島飛行機に働きに行きます。
戦後、重雄さんは家業を再開し、地元で天文クラブを作り、科学雑誌に天体望遠鏡の自作記事などを投稿していました。
笹川さんの活躍を知った木辺成麿氏が、上京した折りに、笹川重雄さんのために鏡を磨こうと、本庄の自宅に訪ねて来たそうです。「木辺さんが訪ねて来たときに、叔母がお茶を出したと話していました。」と、笹川さんの娘さんが話してくれました。
↑(写真)26cmの木辺さんが磨いた鏡
鏡径263mm、厚さ31mm、焦点距離1,945mmの鏡は、フランスのサン・ゴバン(St. Gobain)社のガラスを用いて、昭和26年(1951)7月に作られました。
裏面の上の方に「N B.D.S. S.K.M. “333” F.L.=1945mm 1951 Ⅶ」とあり、下の方に「St. Gobain glass」とあります。「N B.D.S.」の意味は分かりませんが、「S.K.M. “333”」は、Shigemaro Kibe’s Mirror No.333の略でしょうか。また、左の方には、「為笹川重雄氏研磨此鏡面」とあります。これは、「笹川重雄氏のためにこの鏡面を磨いた」という意味でしょう。
↑(写真)26cm鏡の裏面に刻まれた文字
この木辺さんの磨いた鏡を用いて作られたのが、26cm、F7.5のニュートン式反射赤道儀です。
↑(写真)天文台に設置された 26cm 反射赤道儀
この反射赤道儀は、はじめ台車が付けられ物置に格納されていましたが、天沼町に移ってからは、3年がかりで作ったという立派な天文台の中に設置されました。
↑(写真)笹川さんの手作り天文台
ガイド用に、五藤光学製の7.5cm(3吋)赤道儀の鏡筒(接眼部に軽ファインダーの付いたもの)にK40mmの接眼鏡を付けたものと、興和光機(現:興和株式会社)のスポッテイングスコープが同架されています。
↑(写真)人工衛星観測用の 15cm 反射望遠鏡
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