連載 星夜の逸品 -児玉光義-

ドームなび GOTO投映支援サイト

住職の磨いた鏡 4/4
~笹川重雄氏の遺品~

更新日 2013.10.23

笹川重雄文庫

五藤齊三氏は、その著『天文夜話』に、「木辺先生は、同氏が中学二年生の頃から存じ上げている。木辺先生が、中村要さんから、熱心に反射鏡の磨き方を習って、鏡を磨いていた頃だと思う。貞明皇后の御姉君にあたる方が母君で、そのお母様が木辺先生を私の自宅にお連れになった時、『まあ見て下さい、成麿は毎日毎日反射鏡を磨いていて、水銀アマルガムを作るのだと言っておりまして、手の爪が真っ黒に染まっています』と言われた。その頃から私は木辺先生とお近づきになった。」とあります。
また、笹川さんの娘さんの話によれば、「母はもともと大阪の出身で、戦後、京都に移り、社会福祉事業団関連の保母をしていました。そんな折、知り合いを通して木辺成麿さんと知り合ったようです。母は、当時としてはちょっと進んだ娘で、普通の人では満足しなかったようです。そこで、宇宙を相手に星を眺めている父に惹かれたのでしょう、木辺さんの紹介で、京都大学の天文台でお見合いをしたそうです。はじめ、京都から本庄に下るなど考えられない、おまけに商売をやっていて、使用人や兄弟もたくさんいるところに行くなどとは何事かと、親戚中から反対されたそうです。しかし、ともかく二人は宇宙を縁に、木辺さんの仲立ちで結婚した。」のだそうです。

(写真)木辺さん:昭和 32 年 10 月発行の『週刊朝日』より

↑(写真)木辺さん:昭和 32 年 10 月発行の『週刊朝日』より

このように、五藤光学と木辺さんとは浅からぬ縁があります。五藤光学は、木辺さんに30cm以上の反射鏡の研磨をお願いしたり、研磨技術の指導をお願いしておりました。昭和54年(1979)の10月に、60cm鏡の検査に立ち会っていただいたときにいただいた木辺さんの手紙に、
「・・・60cm級を最初に手がけた小生として、後進の人がこの程度までよいものを作ってくれる事が出来るようになった事を大変嬉しく思います。日本でのパイオニア(中村要さんがパイオニアで、私はextendしたのですがpitch盤の研究等ではパイオニアの役をしたつもりです)の私としては、日本でここまで中口径(私は今日では40cm以下は小口径、60~100cmが中口径と云ふべきでせうと思います)をこなす技術者が育った事に大いなる慶びを感じます。・・・」とあります。
また、恒星社厚生閣刊『日本アマチュア天文史』の木辺さんの書かれた「望遠鏡―鏡面研磨を主として」のところの「むすびと付加」に、
「ここで個人名を揚げるのは少し不当かも知れないが、五藤光学の三日山吉弘(正しくは、三ヶ山吉弘)なども立派な技術者の一人であるし、法月製作所の池谷薫も同様であろう。」とあります。

(写真)韓国延世大学の 60cm 反射赤道儀を検査する三ヶ山さん

↑(写真)韓国延世大学の 60cm 反射赤道儀を検査する三ヶ山さん

おわりに

私が五藤光学に入社したのは、昭和38年(1963)4月で、会社は世田谷区新町1丁目にありました。設計課に配属され、プラネタリウムの座標系原版の製作が最初の仕事でした。2ヶ月後に府中の新社屋に引っ越しましたが、当時、営業部長だったのが笹川重雄さんです。名刺には、取締役営業部長とあります。

(写真)笹川重雄さんの名刺と札

↑(写真)笹川重雄さんの名刺と札

普通なら、新入社員が気軽に話できる方ではありませんが、星を知っているということで大変可愛がられ、天体望遠鏡やプラネタリウムの据付調整方法を教えていただきました。プラネタリウムの設置が終わって、市長さんや関係者にお披露目するときに使うのが、笹川さんが持って来る、娘さんがナレーションを担当した録音テープでした。
あれから40数年、ひょんな事から笹川さんの娘さんにお会いすることができ、遺品の26cm木辺鏡をいただきました。いつの日か、それを立派な赤道儀に再製して、笹川さんの代わりに星を眺めて楽しもうを考えています。

< 3.にもどる

このページのトップへ