更新日 2013.11.06
今回は、天文家ならばプロ・アマを問わず、一生に一度はこのような天体望遠鏡を持ちたいと思ったという、名機「ウラノス号」のお話です。
株式会社五藤光学研究所が最初に製造販売したのは、以前お話した口径わずか1インチの天体望遠鏡でした。それでは、そのつぎに開発したのはどのような望遠鏡でしょうか。常識的に考えれば、シングルレンズの口径の少し大きい望遠鏡を作り、つぎに色消しレンズを使用した望遠鏡を開発して、次第に口径の大きな望遠鏡へと発展して行くのが普通のように思います。しかし、現実はそう単純ではありません。昭和3年4月号の『科学知識』に、つぎのような広告が掲載されました。
↑(写真)〔『科学知識』昭和 3年 4月〕
世界的発明として伝えられたる
太陽黒点及び顕微鏡像映写機付属
高級 五藤式天体望遠鏡 発売
口径 二吋四分の一完全色消
倍率 133× 64× 32× 20×
架台 水平垂直微動装置完備
三脚 堅牢、安定、折畳、伸縮自在
付属 天頂観測装置、地上接眼鏡
太陽黒点映写機、格納箱
本品は舶来品にも其比を見ざる完備せる純国産高級天体望遠鏡です
定価 金百九十円 以下各種
とあります。
ところで、この広告には、どこにも望遠鏡の機種名も愛称も書いてありません。ただ、口径が「二吋四分の一完全色消」とあるだけです。一体何という望遠鏡なのでしょうか。
五藤齊三氏は『天文夜話』に、
「私はシングルレンズをいつまでも売るべきでないと考えていた。ゆくゆくは口径八インチの色消レンズ赤道儀を、あるいはアポクロマチックのレンズを備えた赤道儀を発行する予定を持っていた。そこで色消レンズの製作は富岡光学の富岡正重氏に依頼をし、またアイピースは東洋光学の鈴木泰一氏に依頼をした。その時、有効口径五十八ミリレンズをウラノス号、有効口径五十ミリのレンズをアポロン号、有効口径四十二ミリのレンズを作ってダイアナ号と命名し、三種の望遠鏡を製作したわけである。」とあります。
雑誌の広告にある望遠鏡の口径は、「二吋四分の一」で、2吋1/4 ≒ 58mmですから、これは明らかにウラノス号です。このウラノス号の対物レンズは、鏡径が58mm、有効径が55mm、焦点距離が800mmの色消レンズです。対物レンズ枠には露帽(デューキャップ)がなく、レンズがむき出しで、光軸調整機構もありません。鏡筒は、真鍮製でズシリとした重量感があります。架台は、水平垂直微動装置付の英国式の経緯台で、鋳鉄製で三脚の足を取付ける部分が飛び出した、武骨な構造のものです。三脚は、木製の二段伸縮式の比較的大型のものですが、三角板や鎖などの開き止めはありません。天体用の接眼鏡は、ミッテンゼー型のハイゲン式で、6mm、12.5mm、25mmの3種、地上用の40mmが1個、その他、サングラス、ダイアゴナルプリズム、太陽投映機が付属しており、定価は190円でした。こうして、ウラノス号が誕生しました。昭和3年のことです。
↑(写真)〔架台の武骨な三脚取付部〕
ところが、昭和5年のカタログに掲載されているウラノス号の挿絵を見ると、ちゃんと露帽(デューキャップ)が付いています。
↑(写真)〔昭和5年のカタログに掲載されているウラノス号〕
恐らく観測に支障をきたしたのでしょう、対物レンズ枠に露帽と光軸調整機構が付けられ、鏡筒に筒内絞りも付けられました。その他は、昭和3年発売のものとほとんど同じですが、地上用接眼鏡だけは、焦点距離が18mm(44×)のものに変更になっています。
このように、同じウラノス号でも作られた年代によって異なるので、昭和3年に発売されたものを「ウラノス号1型」、昭和5年のカタログにあるものを「ウラノス号2型」と呼んで区別することにしました。
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