更新日 2013.11.12
ウラノス号の対物レンズは、鏡径が58mmという中途半端な大きさのものでした。それは一体何故でしょうか。
五藤光学の1インチ望遠鏡の売行きが次第に伸びてきたころです、日本光学工業株式会社は「五藤光学にレンズを供給していない」という広告を朝日新聞に出しました。そこで五藤光学は、日本光学が出した注文受書の写真を撮り、それを証拠として朝日新聞の広告で反論しました。その結果、日本光学が五藤齊三氏に謝って、この喧嘩の幕はおりました。後で、日本光学の砂山角野氏が独断で広告を出したということが分かりました。その後のことを、五藤齊三氏は『天文夜話』に、
「ところで、この喧嘩では、恩恵を受けたのである。あるとき日本光学が大掃除をしたところ、どうにも処分のつかないレンズのクズが山のようにあった。実はこのレンズは、レンズの素材の融溶点の異なるものがいく種類も交っているものだったので、びんなどに再利用することもできなくて、引き取り手がつかないものだった。ところがこのレンズの不良品の中には、目に見えるか見えない程度のキズがあるだけで、軍の検査で不良品としてはねられてしまったレンズがたくさんあった。そこで私は、日本光学からこのレンズの山をまとめて購入した。不良品とはいっても軽い程度のもので、レンズ一つ一つを丁寧に紙に包んであった。いわゆる兵器としての基準には合わないが、一般的には優良品として十分通用するレンズだったのである。
また、日本光学には、フランスのパラマントイスとイギリスのチャンスブラザーから輸入した、レンズ用のガラスがたくさんあった。このレンズの素材もやはり、ドイツのショットのものと比べると質が落ちるというので、使用を停止して、放置してあった。私はこれらのガラスを二束三文の安値で買い取ると、その中にたくさんまじっていた直径六十一ミリのガラスを富岡光学に依頼して対物レンズとして磨いてもらい、それを芯取りして、五十八ミリのものに仕上げた。
このレンズを付けたものがウラノス号望遠鏡である。この望遠鏡は大変人気を博して、日本全国に行きわたった。「たとえば五十八ミリのレンズに例えれば・・・」といった記事が新聞や雑誌にさかんに書かれたのもこのころである。何も意識的に五十八ミリにしたわけではなく、多数のガラス材料がミリ程度で自然に五十八ミリに仕上がったわけだが、これが日本の天体望遠鏡の標準になったことは、私共がわが国天体望遠鏡のパイオニアであったからであると思う。」
と書いています。
昭和10年10月に銀座の伊東屋で行われた「宇宙の神秘を探る会」に、ウラノス号も展示されました。
↑(写真)「宇宙の神秘を探る会」昭和10年10月10日
上の写真の、右から3台目の望遠鏡がウラノス号です。鏡筒が、真鍮からアルミ製になり軽量化されたことと、架台の三脚を取付ける部分の飛び出しがなくなり、丸くすっきりしたデザインになりました。
↑(写真)架台のすっきりした三脚取付部
接眼部の焦点調節用のハンドル部分は、単純なラック&ピニオンだけのシステムです。また、高度微動稈の鏡筒への取付け部分は、複雑な「レの字型」をしています。それから、対物レンズ枠には、社名や焦点距離などの彫刻はありません。露帽のキャップは、アルミ製でヘラ絞りによる複雑な形をしていて黒半艶の塗装が施されています。付属品は、以前のものと同じです が、地上用接眼鏡だけは焦点距離が20mm(40×)のものが付属しています。昭和13年2月改訂の定価表によれば、価格は250円ですが、この望遠鏡を「ウラノス号3型」と呼ぶことにしました。
↑(写真)焦点調節ハンドル部と高度微動稈の取付部
↑(写真)焦点調節ハンドル部と高度微動稈の取付部
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