連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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吉田茂の長男健一氏の愛用した望遠鏡 4/6
~天文家垂涎の名機「ウラノス号」~

更新日 2013.11.27

最後のウラノス号

昭和30年の「理科教育振興法基準天体望遠鏡」のカタログや、昭和30年11月改訂の定価表に掲載されているウラノス号は、下記のような仕様の望遠鏡です。
対物レンズは、鏡径63mm、有効径60mm、焦点距離900mmの色消レンズ。
架台は、水平垂直微動装置付経緯台(英国式)。
三脚は、堅牢伸縮自在木製三脚(開き止め金具付)。
付属品は、接眼鏡がHM6mm(150×)、HM12.5mm(72×)、MH25mm(36×)の3種と地上用のT30mm(30×)が1個。ファインダーは、口径20mm 7×5°が1個。
その他、太陽投映機、天頂プリズム、サングラスがそれぞれ1個ずつ付属していて、定価は49,000円です。

(写真)昭和30年12月発行の「五藤式天体望遠鏡」のカタログ

↑(写真)昭和30年12月発行の「五藤式天体望遠鏡」のカタログ

(写真)昭和30年11月改訂の「五藤式望遠鏡定価表」

↑(写真)昭和30年11月改訂の「五藤式望遠鏡定価表」


政治家 吉田茂

ところで、平成23年(2011)2月28日の夕方のことです、会社で製品のメンテナンスを担当しているNさんから、「昭和35年製のウラノス号を譲りたいという人がいる」というメールをもらいました。早速、「是非、譲ってくれるよう頼んで欲しい。」と返信しました。翌日、Nさんから電話があり、持ち主のYさんからウラノス号の写真が届いたというので見に行くと、昭和35年製ではなく、その時に五藤光学に修理を依頼したということでした。三脚が無伸縮の直脚であることから、これはウラノス号4型で、昭和20年代に製造販売されたものです。その後、持ち主のYさんに直接電話をして、いろいろな話しをし、金額の交渉などもして、ようやく譲ってもらうことになりました。息子が小学校に上がるので、吉田茂の長男が使っていた望遠鏡をもらったのだが、息子は興味がないので欲しい方に譲り、入学金の足しにしたいということでした。
若い人は、吉田茂といってもご存じない方が多いと思いますので、ここに簡単に紹介しておきます。
吉田茂は、明治11年(1878)9月22日、高知県宿毛市出身の自由民権運動の闘士、竹内綱の5男として東京神田駿河台(現東京都千代田区)に生まれました。明治14年(1881)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商だった吉田健三の養子となります。ところが、明治22年(1889)に、養父の健三が若くして他界し、11歳の茂は莫大な遺産を相続することになりました。
少年時代の茂は、大磯町西小磯で義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業します。これは、寺子屋上がりの学校で、木造二階建て、窓は古びた広い紙障子で、隣接の野毛山の老松学校の子供たちからは、「太田学校 クソ学校 お昼のおかずは イワシのあたま」とからかわれたと、石田五郎著の『野尻抱影』にあります。吉田茂が卒業した翌年、星の文人野尻抱影が5歳でこの太田小学校に入学しています。
茂は、明治22年(1889)2月に耕余義塾に入学し、明治27年(1894)4月に卒業すると、10年余りに亘って様々な学校を渡り歩きます。日本中学(日本学園の前身)、高等商業学校(一橋大学の前身)、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)、慶応義塾、東京物理学校(東京理科大学の前身)、学習院高等科、学習院大学科、東京帝国大学法科大学、明治39年(1906)7月政治科を卒業、同年9月外交官と領事官試験に合格しました。 当時、外交官の花形は欧米勤務でしたが、吉田茂は入省後20年ほど中国大陸で過ごしています。
終戦後、昭和20年(1945)9月に東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選されます。翌、昭和21年(1946)5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾、内閣総理大臣に就任しました(第1次吉田内閣)。その後、昭和23年(1948)10月、内閣総理大臣兼外務大臣(第2次吉田内閣)。昭和24年(1949)2月、内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣)。昭和27年(1952)10月、内閣総理大臣(第4次吉田内閣)。昭和28年(1953)5月、内閣総理大臣(第5次吉田内閣)。このように、日本で5回も内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ一人です。

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