連載 星夜の逸品 -児玉光義-

ドームなび GOTO投映支援サイト

望遠鏡最初の付属品 2/6
~世界的発明と称された『太陽投映機』~

更新日 2013.12.25

肝心な展示物が足りない

こうして、国立天文台、上田市立博物館、仙台市天文台、天文博物館五島プラネタリウム、大仏次郎記念館などと展示物を借りるための交渉が始まりました。このとき、博物館どうしで展示物の貸し借りをする場合、賃借料はかからないが、もし、借りた展示物が運搬中や展示中に破損した場合、それを修復する費用がまかなえるような保険料をかけるのだということを初めて知りました。これが意外にお金がかかるのです。
ところで、展示場の図面の上に、それぞれの展示物を書き込んでレイアウトしてみると、肝心のプラネタリウムと天体望遠鏡の実物資料が意外に少ないことが分かりました。そこで、急遽M-1型プラネタリウムの恒星球や恒星投映筒のカットモデルを作製したり、天体望遠鏡の関連機器をインターネットで探したりしました。その一つが、「太陽投映機」です。こうして、「星空にあこがれて~プラネタリウムと天体望遠鏡~」展が無事オープンすることができました。

(写真)M-1型プラネタリウムの恒星球カットモデル

↑(写真)M-1型プラネタリウムの恒星球カットモデル

(写真)町田市立博物館「特別企画展」のパンフレット

↑(写真)町田市立博物館「特別企画展」のパンフレット

きっかけとなった「太陽投映機」

大正15年に五藤光学を創立した五藤齊三氏は、家族一同が車座になって組立てた1インチ望遠鏡を、夜間に一台ずつ星でテストして、この望遠鏡を科学画報社におさめていました。科学画報社が、この1インチの望遠鏡を売ると言い出したのは、昭和元年(1926)の11月頃です。そのときのことを、五藤齊三氏は『天文夜話』に、
「科学画報社というのは誠文堂新光社の経営で、その編集長の仲摩輝久氏と社主の小川菊松氏の二人が、そろって私の家を訪ねてみえた。大正15年(1926)の8月13日の朝日新聞紙上に、街の発明家として、私の太陽投影機が世界的発明という見出しで記事が載ったが、それを見て、科学画報の9月号のグラビア1頁に私の家の襖1枚に太陽を拡大して写し、黒点が点々と表れている模様を載せ、日本光学の技師長の五藤の発明と書きたて、掲載すると同時に、私の作った望遠鏡や太陽投影機を販売させてほしいと申し込んできた訳である。そこで社告として、五藤光学の五藤齊三先生の作った望遠鏡を一手販売すると掲載したわけである。」と書いています。

(写真)大正15年8月13日付の東京朝日新聞

↑(写真)大正15年8月13日付の東京朝日新聞

(写真)『科学画報』の9月号に掲載された太陽投映機

↑(写真)『科学画報』の9月号に掲載された太陽投映機

この「太陽投映機」は、五藤齊三氏が日本光学時代に、会社の仕事としてではなく、個人的な趣味として開発したものです。それを、五藤光学創立と同時に製品化し、天体望遠鏡の付属品として販売したものです。

< 1.にもどる 3.にすすむ >

このページのトップへ