更新日 2014.3.12
私が株式会社五藤光学研究所に入社した頃は、初任給が1万円足らずで、手取りは数千円でした。千円あれば一週間は暮らせた時代です。ところで、前回お話したように、子どもの頃に天体観測をしており、多少星が分かるということで、プラネタリウムの調整を行う部署に配属されました。ただ、まだまだ天文知識が足りなく、勉強する必要があります。しかし、天文書をたくさん買う余裕はありません。そこで、天文のことを一冊で何でも分かるような本はないものかと考えた末、天文学事典を買うことにしました。恒星社から刊行されたばかりの『現代天文学事典』は2,800円で、ちょっと高く新刊本は買えません。神田の古書店で中古の本を探し、箱もカバーもない裸本を2,000円で買いました。
↑(写真)荒木俊馬著『現代天文学事典』恒星社発行
それを、毎日会社に持って行き、暇さえあれば読んでいました。特に、プラネタリウムの仕事に必要な天球概念などを勉強しました。ところで、このような事典を編纂したのは、一体どのような人なのでしょうか。
百万遍のあたりから京福電鉄叡山線の出町柳駅の前を通り、高野川と賀茂川を渡り、今出川通りのすぐ北の路地を西に行くと、護国寺の東門のところに出ます。大正10年(1921)2月のある夜、一人の青年がこの道を歩いていました。その青年は荒木俊馬といい、明治30年(1897)3月20日、熊本県鹿本郡来民町に、熊本県立鹿本中学校の初代校長荒木竹次郎の長男として生まれました。
↑(写真)荒木俊馬(1897-1978)
「母が常々語ったところによると、その日は当時の春分の日で、生まれた時刻は午後の4時から5時までの間で、しかも何をうろたえたのか、僅かに8箇月の月足らずで母の胎内から飛び出したそうである。そのように幼時から母に聞かされていたのであるが、私が大学で天文学を専攻するようになってから、ふとこのことを想い出して、好奇心の動くまま古い暦で調べて見たところ、時刻までが、およそ太陽の春分点通過の時と一致していることを発見して、その偶然性に自ら驚くというよりは、寧ろ私が太陽の春分点通過と時を合わせるために二箇月も早く母の胎内から飛び出したのではあるまいかと、一種の神秘的迷信に捕らわれたことであった。つまり、このことを考えるたびに、何一つ大した天文学的に誇ることのない私にとって、ただ私の誕生の時刻だけに極めて偶然的ではあるが、天文学的に重要な意義があったのだと自ら慰めている次第である。」と書いています。
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