更新日 2014.5.14
痛いほどの空腹感に鞭打たれながら、どこかで夕食をとらなければならないのですが、泥にまみれた靴とズボンに気がひけて、軒を並べたレストランはどれもこれも余りにも敷居が高いようです。とうとうツェルマットの街を通り抜けてしまって、さてどこにしようかと途方に暮れていると、パッたりとまた東大のHに遭いました。今度は一人、宿を訪ねてしばらく待っていたがあまり暗くなったので帰るところだったという話です。堂々たる服装の紳士の道連れができて、やや心強くなったのか、それでもそう大した立派でもないツーリステン・レストランと看板を掲げた一軒に飛び込んで、先生二人はむさぼるように夕食、東大のHはお茶をのみながらよもやま話です。
「あなたがたが氷の上をあちらこちらと迷っているのが長い間山の上から見えていましたよ」
Hはそう言って笑いました。そして、薄暗い電灯のもとで、長い間、学問の話、東京や京都の教室の話、世界の学界の話などを語り合いました。Hは、明日この地を去るといいます。二人の先生たちも、やがてまた予定のない放浪の旅人となります。アルプスの北麓で思いもかけず奇遇してまた再び別れ行く人間の姿。アルプスの大自然に比べて如何にも微小なその人間の姿が、今また新しくしみじみと感じられるようです。
↑(写真)荒木俊馬絵:ツェルマットの山村
8月28日と29日は、とてもよく晴れ渡った良い天気の日でした。荒木先生は、ゴルナーグラートの上で摘み採った草花を押し花にして書物に挿んだり、裏の小高い丘の上で、マッターホルンの雄姿を仰ぎ、矢立の筆を噛んでスケッチブックに山々の景色を写したりして暮しました。思えばスイスのテッシン県から北部イタリアの湖水地帯、その景色はなごやかな、例えて言えば女性的な美でした。これに比して、ここアルプスの牧場に寝転んで見る高山の景色は、同じく劣らぬ美は美であっても、それは崇高な男性的な美、あるいは人生の存在を深く瞑想させる哲学的な美とも言えます。
8月30日、朝、急に思い立ってベルリンに帰る決心をしました。午後0時20分、ツェルマットの駅を発って、ビブスの渓谷を下り、一路ベルンを目指します。
4時57分、ベルン着。ここで途中下車。
ベルンは美しい街です。谷底のような深い低地が市内を蛇行してアーレ川が流れています。川床の小石の一つ一つを数える事が出来るほど清く澄み切った水です。東南の方、遥かにユングフラウを中心とするベルナー・アルプスの連峰が真白な雪を戴いて夕陽に映え、文筆を絶する美しい景色です。一渡りベルンの名所を見学して、駅の食堂で夕食、6時5分発、各駅停車の鈍行で、オルテン経由でバーゼルに向かう。この度の旅行で始めての夜汽車です。8時オルテン着発。9時18分バーゼル着。二人は、駅前のホテル・ブリストールの一室のベッドに疲れた身を横たえました。
8月31日、今日もとても良く晴れる。ラインを下るドイツの汽車は、バーゼルからは出ないので、タクシーでバーディシア駅まで行きました。
午前10時45分、バーディシア駅を発車したドイツ国鉄の列車は、一路ラインの流域を下って北行します。フライブルク、オッフェンブルク、カールスルーエを通り、3時6分ハイデルベルクに着きました。二人は、荷物を一時預けにして、街の見物と一夜の宿を探して街のそぞろ歩きです。
ハイデルベルクは小都市ですが、ドイツ最古、おそらくヨーロッパ最古の大学の所在地で、学術と学生の街であり、ワインとビールの街であり、詩の街であり、そして若き恋愛の街でもあります。
宿を決めた後、二人は腸詰料理で腹ごしらえをして、ハイデルブルクの古城を見学しました。
9月1日、10時過ぎにハイデルベルクを発ち、12時にポツダムに着きました。荒木先生は、ルッケンヴルダーストラーセ五番地の友人Hの下宿に泊まることにし、今回の旅が終了します。
さて、文中「東大のH」というのは、みな様ご存じの、東京大学天文学教授で、第5代東京天文台長だった、故萩原雄祐先生のことです。
こうして無事ドイツ留学を終えた荒木先生は、シベリア経由で昭和6年(1931)5月に帰国しました。その時、すでに新城教授は昭和4年(1929)2月から京都帝国大学の総長になっていたので、先生は6月30日付けで文部省から宇宙物理学科・理論講座の担当を命じられました。その結果、理論方面の講義は全部彼が持たなければなりませんでした。それだけではなく、当時宇宙物理学科の入学定員はわずかに3名でしたが、そのほとんどが先生の講座に集まり、その卒業論文作成の指導までしなければならず、先生の教育と研究の生活は非常に忙しく、その状態は昭和20年(1945)の敗戦までつづきました。先生が、京都帝国大学在官中に講義した科目は、天文学総論、誤差論及び最小自乗法、天体力学、宇宙物理学、統計天文学、宇宙物理学特論など多岐に渡っています。
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