更新日 2014.6.4
昭和53年(1978)7月初旬、荒木先生は北陸に出張し、京都産業大学に併設の世界問題研究所主催のシンポジュウムの打ち合わせのため、姉妹大学の金沢工業大学などを訪問して、7月9日に京都に帰りました。10日は京都産業大学において柏副総長始め関係諸氏と協議の後、午後4時前に帰宅し、この日中は元気に諸要件をさばき、用務を果たされたということですが、同日19時頃卒然として心不全のため他界され、行年81歳でした。
後日、京都産業大学の総長室から一つの原稿が見つかりました。先生は、『天文宇宙物理学総論』全12編の第Ⅲ編として『天体力学』の原稿全部を書き上げたのは、昭和27年(1952)4月のことです。昭和24年(1949)に上巻を出版した後、主として経済的な理由で下巻の出版を見合わさざるを得なかったのですが、先生はその希望をずっと持ちつづけていました。
その後、先生は京都産業大学の創設に奔走し、開校後はその発展のために非常に忙しく、この原稿はそのまま眠っていたのです。昭和48年(1973)夏に脳血栓で倒れたのですが、その後なんとか回復すると、再び『天体力学』の上下を一冊にまとめて出版する計画にとりかかりました。そして何度か原稿に手を入れ、昭和51年(1976)3月20日に最初の序を書いています。その後、一年の間に更に本文にも多少の手を加え、昭和52年(1977)3月20日に新たに序を書いています。
そして、この『天体力学』は、息子の荒木雄豪によって昭和55年(1980)10月1日に出版されました。
↑(写真)昭和55年に恒星社から出版された『天体力学』
《挿絵》
◇荒木俊馬先生の写真は、荒木俊馬著の『宇宙構造観』昭和42年10月30日 第4版発行 恒星社厚生閣のトビラの写真から、出版社の許可を得てスキャンさせていただきました。
◇新城新蔵先生の写真は、荒木俊馬著の『天文年代学講話・古代の時を決める話』昭和29年3月20日 再販発行 恒星社厚生閣の口絵から、出版社の許可を得てスキャンさせていただきました。
◇荒木先生の絵「ボーデン湖の中にあるリンダウの町」、「ルガーノ湖の絵巻」、「ツェルマットから眺めたマッターホルン」、「ツェルマットの山村」は、荒木杜司馬(俊馬)著『疇山旅画帖』昭和55年7月10日発行 恒星社厚生閣(非売品)の中の絵を、出版社の許可を得てスキャンさせていただきました。
《参考文献》
◇荒木俊馬著『天文と宇宙』昭和16年9月15日 第7版発行 恒星社厚生閣。
◇一柳寿一・鏑木政岐・宮地政司・宮本正太郎・能田忠亮・薮内 清編集『荒木俊馬博士還暦記念・現代の天文学』昭和33年4月15日発行 恒星社厚生閣。
◇荒木俊馬著『天体力学』昭和55年10月1日発行 恒星社厚生閣。
◇荒木杜司馬(俊馬)著『疇山旅画帖』昭和55年7月10日発行 恒星社厚生閣(非売品)。
◇荒木俊馬論文集編輯委員会編輯『荒木俊馬論文集』昭和54年7月10日発行 京都産業大学 故荒木総長顕彰会(非売品)。
◇荒木俊馬著『三訂新版・現代天文学事典』昭和45年2月25日 三訂発行 恒星社厚生閣。
◇荒木俊馬著『疇山遺珠』昭和54年3月20日発行 恒星社厚生閣(非売品)。
ここで、「疇山」(ちゅうざん)というのは、荒木先生が書や絵を描いたときに用いていた雅号で、「疇」というのは諸橋轍次著の『大漢和辞典』によれば、「た」、「はた」、「うね」、・・・・・「はかる」、「つたえる」とあり、「つたえる」のところに〔漢書、律歴志〕疇人子弟分散。〔注〕如淳曰、家業世世相傳為レ疇。とあるので、家業を世襲することです。また、「疇人」のところには、世々父祖の業を継承する者。疇昔星術を知っていた人。とあるので、これは天文学者という意味です。
なお、本の書影についても、出版社の許可を得て掲載しております。
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