更新日 2014.3.19
彼は、大正9年(1920)の9月に京都帝国大学理学部に入学し、理論物理学をやろうと思っていました。ところがその翌年、物理学科の一講座にすぎなかった天文学が独立して宇宙物理学科となりました。
↑(写真)山本一清(1889-1959)
その当時、星学通論と誤差論を講義していたのが山本一清先生でまだ助教授でした。その山本先生が、彼に宇宙物理学科に転科しないかとしきりに勧めました。おそらく彼が天文学に一番興味があり、また熱心だったからでしょう。彼としては、物理学科を卒業すれば、どこかの高校の先生ぐらいにはなれるだろうが、天文に転科しても将来生活の道が立つかどうかわからないので、宇宙物理学科の教授である新城先生を一度訪問して、いろいろ話を伺って見ようと思ったわけです。そこで、友人の滑川君に道を教わり訪ねることにしたのです。その当時、新城新蔵教授は相国寺東門の近く、塔之段藪下町に住んでいました。
相国寺東門の近くは、その頃はまだだいぶ暗く、滑川君に教わった道筋がよく分からず、近くにある交番で聞いてみました。「ああ、新城さんですか、大学の教授ですね。それはこの所の幼稚園の角から北に曲がって一町(約109メートル)ばかり行った所の、左側の黒い塀のお宅です」ということで、すぐに分かりました。
玄関から上がるとすぐに梯子段になっていて、二階の八畳に通されました。しばらく待たされましたが、その間、新城先生というのは一体どんな顔の先生であろうかと、いろいろ想像して見たがさっぱりわかりません。天文学をやるような先生であるから、おそらく鶴のように痩せた人だろう、などと想像している間に、やがて梯子段を昇ってくる人の足音がして、障子が開き、新城先生が入ってきました。印象は想像とは全く違って、がっちりした堂々たる恰幅で、威厳があり、ちょっと近寄り難いような感じがしました。
久留米絣の着物を着て、キチンと正座して「新城です」と挨拶され、「宇宙物理学をやりたいというのでしたね」というのが次の言葉でした。それから、宇宙物理学というのはどんな学問であるか、といったようなことを少しばかり話されたが、あまり口数は多くなく、彼の方から出すごく簡単な質問に答える程度で、それもごく簡単な答えで、必要以上にはあまりしゃべりませんでした。そして、二人は対座して何もいわずにいる方がずっと長かったような気がしますが、とにかく彼は一時間ばかりお邪魔して帰ってきました。
その時うけた印象は非常によかったようです。どうしてよかったのか、どこがよかったのか、よくわかりません。はなはだ無愛想な応対ではあったが、何だか非常に親切で、誠実なような感じがしたのです。そのようなわけで、自分の師事する先生は、この先生より他にない。自分の一生涯をこの先生の指導の下に天文学の研究に捧げよう。彼は、そう決心して自分の下宿に帰ってきたのです。
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