連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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『現代天文学事典』誕生秘話 4/13
~現代天文学の一大体系の編纂を目指す~

更新日 2014.4.2

宇宙物理学教室に勤務

荒木俊馬先生は、大正12年(1923)3月、京都帝国大学を卒業後、直ちに理学部の講師となり、宇宙物理学教室に勤務、天体力学の講義を担当するように命じられました。彼としては、感激の極みで、一日中時間さえあれば天体力学の勉強に専念し、はりきった青春時代のことでもあり、寝食を忘れることも度々あったといいます。
当時、日本語で書かれた天体力学の参考書は、岩波の物理学講座の中の2、3の講義以外は一冊もなく、主としてドイツ語、フランス語、英語の原書を読むより仕方がありませんでした。しかし、とにかく4月から講義を始めることができました。翌大正13年(1924)3月、恩師で宇宙物理学教室の主任教授新城新蔵の長女“京”と結婚、同年10月より京都帝国大学の助教授に昇格します。彼は、この頃より、短周期および長周期変光星の光度変化に関する統計ならびに理論に勢力的に取り組み、数々の論文を発表します。中でも、短周期変光星クフェイド大気の圧力変化に関する理論的研究は、学界で高い評価を受け、これに対して昭和4年(1929)8月、理学博士の称号を授与されました。

博士号をとった荒木先生の論文

↑(写真)博士号をとった荒木先生の論文

ドイツに留学

荒木先生はこれより前、昭和4年1月より2年あまり、宇宙物理学研究のためドイツに留学、主にポツダム天体物理学観測所とベルリン大学で研究に従事しました。しかし、彼が留学時代に最も熱心に勉強したのは、ちょうどその頃完成期に入った量子力学と波動力学でした。彼の最初の研究は、主として恒星大気の構造および変化に関するもので、学生時代からゾンマーフェルトやボーアの旧量子論に基づく原子構造論などを勉強したが、その理論は1923年から1926年代に入って、原子構造を説明するのに種々の矛盾を生じ、すっかり行き詰まっていました。それを打破したのがハイゼンベルグの量子力学やシュレーディンガーの波動力学です。彼は留学前にハイゼンベルグやシュレーディンガーの理論を、オリジナルの論文で読んでいたが、特に心ひかれたのは、天体力学の講義を担当していたからです。天体力学で最も重要であり、かつ面倒な計算は摂動論ですが、摂動論の基礎は1834年ハミルトンによって考え出された正規方程式とその解法、つまりハミルトン・ヤコビの偏微分方程式による方法です。ところで、ハミルトン・ヤコビの偏微分方程式は、実は波動方程式であって、この波動方程式を解いた結果が正規方程式の解と同じなのです。幸い、彼の留学した時期が、両力学の完成期ともいうべき、新量子力学と波動力学に関するまとまった権威書が次々に出版された時代で、それらを買い求めて読むのが、彼にとっては一番の楽しみで、そのため夜を徹することも度々あったといいます。
余談ですが、私が高校生のとき、廃刊寸前の『科学画報』に紹介された、ハイゼンベルグの「不確定性原理」を読んで衝撃を受けたのを憶えています。

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