更新日 2014.4.9
ところで、荒木先生は、ドイツ留学中の昭和4年(1929)8月13日から9月1日までの20日間、親友H(実は、京都大学地球物理学科助教授だった故長谷川萬吉博士)とともに、南ドイツからスイスのアルプス山麓に旅をしています。それは、旅行計画も日程も作らない気楽な旅だったようですが、一体どのようなものだったのでしょうか。荒木先生が著した『疇山旅画帖』を頼りに、当時の旅を辿ってみることに致しましょう。
↑(写真)荒木杜司馬著『疇山旅画帖』恒星社発行(非売品)
西暦1929年8月13日。二人は、朝8時半にベルリンの家を出て、タクシーでアンハルター駅に乗り着けて、9時25分発のミュンヘン行き遠行快速列車に乗り込みました。列車は、ブランデンブルクの平原を西南に向かって走ります。見渡す限りの広野には、この地方特有の松原が幾重にも重なり、遥かな大地と碧空の境まで続き、赤い屋根の農家が点々とそれに色を添えています。地平線の彼方には白雲がたなびき、渡り鳥の一群が翔り行くのが見えます。
12時20分、チューリンゲンというイエナの市街を通りました。ザーレ川に臨む閑静な小都市で、16世紀の頃に建設された古い大学もあります。遥かに見えるゆるやかな丘陵の上の古城跡には、中世封建時代の香りがほのかにただよっているような気がします。しかし、汽車はイエナの駅には停まりませんでした。汽車は、チューリンゲンの広野と丘陵との間を走り、15時40分ニュールンベルクです。8月の夕陽は、赤々とバイエルンの大平原の地平線の彼方に落ち暮れて、汽車は18時25分、ミュンヘンに着きました。
私と同僚のA君とRさんの3名は、平成8年(1996)4月21日、ドイツで行われるプラネタリウム研究会でデジタル・プラネタリウムの研究発表を行うために、ミュンヘンからイエナに向かいました。先生たちは、イエナからミュンヘンまで6時間5分かかっていますが、私たちはミュンヘンからイエナまで4時間5分でした。67年間に2時間も速くなったようです。さて、先生たちは8月14日の夕方、17時25分発のリンダウ行きの急行列車に乗ります。列車は一路西南西に走り、ブッフロエを過ぎ、タンネの森に夕陽が落ちて行く頃ケンプテンの町を通過、21時15分にリンダウ駅に着きました。リンダウは、ボーデン湖の島に造られた人口3万ほどの町で、島全体が町そのものです。先生たちは気に入ったらしく、リンダウには3日間滞在しました。
↑(写真)荒木俊馬絵:ボーデン湖の中にあるリンダウの町
その後、フリードリヒスハーフェンに向けて船出し、11時半にフリードリヒスハーフェン着。湖岸のレストランで昼食。14時25分フリードリヒスハーフェン出港、ボーデン湖を横断してローマンスホルンに向かいます。ボーデン湖の湖上を涼風に吹かれて約50分、15時20分頃ローマンスホルンに着きました。人口6,500の小さな町ですが、フリードリヒスハーフェンとの船の行き来で重要な港です。白十字の国旗がハタハタと飜っているのを見て、スイスに来たなあと明瞭に認識せざるを得ませんでした。
8月18日は、朝から雨が降っていましたが、午後になって小止みになりました。12時10分、電気機関車に曳かれたスイスの汽車は先生たちを乗せてチューリヒに向けて出発しました。ビンテルトゥールに1時28分に着き、ここで20分の停車です。オーストリアのウイーンから来たのか、あるいはドイツのシュトゥットガルトから来たと思われる列車と連結して、1時50分にチューリヒに向けて出発、ここからは急行です。
約25分してトンネルを抜けると、美しいチューリヒ湖が眼前に展開して、たちまちにして別世界に来たという感じです。満々と水を湛えた湖面の下側から左寄りの袂の緩やかな丘の傾斜面に営まれる麗しい大都市、それがチューリヒです。2時20分、チューリヒ・ハウプト駅に着きました。
駅に下り立った二人は、大きな荷物を駅に預け、雨の中を湖畔の方に歩きました。街の看板を見ると、ドイツ語あり、フランス語あり、イタリア語のあることに気づきます。また、道行く人々の話す言葉にもドイツ語、フランス語、イタリア語が耳につきます。つまり固有の国語を持たない国、それがスイスなのです。チューリヒ湖から流れ出るリムマート河を右に、その対岸のだらだらと高台になった街に、チューリヒ市民天文台ウラニヤの丸屋根を望みながら進んで行くと、いつしか湖畔に出ます。レストラン・ゼーホフという看板を掲げたちょっと気のきいた料理屋で、とりあえず昼食をとることにしました。また、この家はホテルも兼ねているということで、今宵はここに泊まることに決めました。
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