連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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『現代天文学事典』誕生秘話 9/13
~現代天文学の一大体系の編纂を目指す~

更新日 2014.5.7

その後、先生たちは、ダラダラと歩いているとツェルマットの街はずれに出ます。すると、草原の丘の上に岩山が聳え立っているところがあり、二階建てのレストラン兼下宿が立っていました。そこで、マッターホルンの雄姿を見ながら、テラスのテーブルに座ってビールを飲みます。看板にメーシガー・プライス(安宿)と注釈がついていたので、あまりきれいではなさそうだが、周囲の景色も気に入ったので、ここに泊まることにしました。
夕方、二人は食事の知らせを待っていましたが、いつまで待っても何の音沙汰もありません。夜の9時半も過ぎたので女中に聞いてみると、食事は、渓流の向う側の山腹の森の中にある別館でするということです。二人は「これは、これは」と急に狼狽する始末。そして、今食事から帰ってきたばかりのドイツ人の老人に案内してもらい、暗闇の中をカンテラのようなランプを頼りに、渓流を渡り別館に向かいました。そこで二人は、夜9時半の世界に、言語を絶する摩訶不思議な現象を目撃することになるのです。
危ない足元に気を取られ、ランプの弱い光に照らされる地上のみ注意していた眼をふと見上げた空――そこには幻しの如くマッターホルンの巨人の姿がまざまざと浮び出ているではありませんか。現実の世界の存在ではない、マッターホルンの幽霊だろうか。あたかもネオン・サインに照らされたように淡いくれないのバラ色の燐光を放つ巨人の横顔のようです。思わず感嘆の声を発して立ちすくみました。案内の老人に、
「あれは月の光でしょうか」と聞くと、
「いや、太陽の光ですよ。」
アルプスの高峰マッターホルンは、われわれが住む下界が暗黒の深淵に眠る頃になっても、なお遥かに遥かに深く落ちて行った太陽の光を浴びることが出来るほど、それほど高くかつ孤立しているのです。

荒木俊馬絵:ツェルマットから眺めたマッターホルン

↑(写真)荒木俊馬絵:ツェルマットから眺めたマッターホルン

ゴルナーグラートは、ツェルマットから登山鉄道によって登ることの出来る山で、この山上から見るパノラマはスイスにおける最も雄大壮厳なものです。アルプスの訪問客がツェルマットに集まるのも、一つはこのゴルナーグラートに登るためです。標高3,136メートル、富士山とほぼ同じ高さの山です。
8月27日、先生たちもこのゴルナーグラートに登ります。ケーブルではなくアプト式の鉄道です。ゴルナーグラートの終点に着いた時、ふと後ろの客車を覗くと、H夫妻の乗っているのに始めて気が付いて、車を降りながら「ヤア、ヤア」の挨拶をしました。
駅の玄関を出て先ず眼を驚かすのは、前面に立つクルム・ホテルです。よくもこんな高山の頂にこのような重厚な建物を造ったものだと思いました。このホテルの建物を回ると、ゴルナーグラートの見晴台になっています。ここから眺めるパノラマは、全アルプス第一の壮麗雄渾な絶景です。モンテローザ氷河と、モンテローザ山塊の右側をめぐって流れ落ちるグレンツ氷河。これらの両氷河がゴルナー氷河の本流と合流し、雄渾な大氷河となって南から西の方に延々と横たわっています。
「見給え、モンテローザの山の雪を蹴って人が下りて来るようだ」
双眼鏡を両手に見入っていた東大のHが、何か天空の一角に新星でも発見したように歓声を上げました。
「だが動いているのかな。僕の眼には動いているような。三人ばかり、あの黒い岩角の下のなだらかな雪のところ」
Hは双眼鏡を眼から離して指さしました。
「どれどれ」
あとの三人も代わる代わる双眼鏡を取って、彗星でも探すような気持ちです。なるほど三人か四人、蟻よりも更に小さな黒い影が、雪の中を相寄り相離れ、長く見ていると、だんだんと下に降りて来るようです。ベデカの観光案内書によれば、この地方の高山の登山には、登山者一人につき案内人二人と合力一人を必要とするとあります。そういえば、この一群の人影は四個らしい。登山者一人にその従者三人でしょう。
モンテローザと対峙する大きな山がリスカンムの海抜4,538メートルです。それに続いて形も同じ大きさも等しい二つの真白な山、―-これはツヴィルリンゲと呼ぶ双子の山で、ふたご座の星と同様に、左が兄の山のカストールで海抜4,230メートル、右は弟のポルックスで海抜4,094メートルです。ギリシャ神話の双子を天に上げて星座としたのは古代ギリシャ人ですが、今この星座の双子を地上に下してアルプスの山に冠したのは比較的後世のことです。それにしても、この俗塵を離れた世界にふさわしい山の名です。時計を見るとやがて11時です。みんなで一緒に昼食の弁当を食べました。それからH夫妻と別れて、先生たち二人は、
「折角ここまで登ってきて氷河の片隅も踏まずに帰っては話の種にもならない。一つ勇気を振って氷河を下りてみるか」
と、急に大それた野心を起こし、地図を開いて氷河探検の相談をします。そして氷河を渉ることにしました。
荒木先生がエーデルワイスを採るために足を滑らせて落下したり、友人のHが氷河を飛び移ったときに滑り落ちたりしました。そして、ガイドなしに氷河の上を渉ることの難しさを悟りました。二人は、疲れ切った手と足に必死の努力を込めて岸をよじり、500メートルの高さを登るのに10回も休んでは、破裂しそうな肺と心臓を静める始末です。ようやく、リッフェルベルク駅に辿り着き、切符を買うひまもなく電車に飛び乗り、ツェルマットに着いたのは7時半でした。

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