更新日 2015.4.15
今度は、善意ある人に是非頼むと云われ、時事解散の仕事も引受けることになったのです。
前田久吉は、解散にあたり最も難しいのは、社員の退職慰労金の問題と、これまで山積みされた負債の整理の2つと決心をしました。そして、12月24日の最後の株主総会に臨みます。そして、翌25日の朝、不安と緊張の漂う中、「株主総会の決議により解散―――。」と告げました。
退職慰労金は、規定通り支払っても50万円もあればと考え、時事の後援者などあちこち奔走し25日までに用意しました。そして、26日の早朝から支払の準備に取りかかりました。ところが、当時、50万円といえば相当な大金だったし、それに大勢の社員だったので会計の方が思った以上に手間どり、懸命にやっているのですが計算があまり捗りません。その内にとうとう短い冬の日は暮れてしまいました。社内いっぱいに詰めかけた社員は、穏やかにしているものの、内心気が気ではありません。支払いが遅れれば遅れるほど騒然としてきます。それが夜になると一層険悪になってきました。その時、前田久吉は販売店の会合に主席して、解散の事情を説明し了解を求めるとともに、その後始末をしていました。もう少しというときに社内争議の知らせがあり、急いで会社に駆けつけました。社内はまるで蜂の巣を突っついたような大混乱で、バカヤロー、もっと金を出せ、スローモー、などと罵声が飛んできました。そこで前田は机の上に駆け上がり、懸命に説得にあたります。その内夜がふけ、騒ぎがいくらか静まり、話しができるようになります。そこで、争議側から代表が出て交渉が続けられ、そこで、更に25万円の退職慰労金の追加要求が出されました。50万円の慰労金は既に騒ぎのうちに規定通り支払を済ませましたが、更に追加要求がなされたのです。前田は、解散によって明日から職を失う人達のために、できれば要求を受け入れたいと思いました。そして、争議側との交渉の合間をぬって車で出かけました。その後のことを、『日々これ勝負』には、
「年内余日が無い。あわたゞしい一日、私は毎日の奥村信太郎、高石真五郎の両氏に会った。「だいぶ騒いでいるようだな」「治まりそうかね―――」二人は私の顔を見ると直ぐ訊いた。「なんとかしたいと思っている、それで第一に話したい事がある」と、私は率直に用件を切出した。用件とは―――
時事を毎日に合同の形で預け、同時に小学生新聞の発行、天象儀(プラネタリウム)設置、音楽コンクール、大相撲優勝額贈呈等の事業計画も引継ぎ、代償として二十五万円の支出を求め、これを退職慰労金の追加分に充てたいというのが私の腹案だったから、奥村、高石の両氏に会ってその意向を聴く事であった。そして両氏は快くこれに応じるであろうと、私は心中に思っていた。
これより前、時事解散の事が伝わるや、報知新聞の野間社長等、要る金は出そうとの話もあり、だいぶ乗気のようだったが、それよりも私が第一に奥村、高石の両氏に会ったのは、両氏が私を時事に推挙した縁故もあり、話はまず両氏に持ってゆくのが順当だと心得たからである。と云うのも、時事の合同が、決して毎日の不為にはならないだろうし、またこうしておけば、万一時事復活の際にも話合いが出来るだろうと、私は堅く信じたからでもある。「二十五万円、時事の葬式金か」高石氏が笑った。「いや婚礼の結納金だ、悪い話じゃないから一番に持って来た」と、私は笑って答えた。談笑のうちに両氏の肚は既にきまったらしい。「話は出来ると思う、協議のうえ直ぐ返事する」私は確信をもって両氏に別れた。社へ帰ると依然として喧々ゴウゴウだ。間もなく合同決定の知らせが来る。こうして退職慰労金の追加分二十五万円は用意出来たのである。」とあります。
その分配方法についても、いろいろあったようですが、ようやく昭和12年(1937)の元旦になって分配案がきまり、翌2日から退職慰労金の追加分も滞りなく配分されました。
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