更新日 2015.4.22
それでは、時事新報の解散前後の状況をもう一度見て見ましょう。『日々これ勝負』の中に、「東日館建設の難関」と題し、つぎのようにあります。
「解散当時の時事新報発行部数は、全国で二十五万、東京で七万と称されていたが、解散の報ひとたび伝わるや、その代用紙として、各新聞社の読者争奪戦が烈しくなった。現に報知の野間社長などひどく乗気で、自分の手に収めたい様子だったが、私は第一に奥村、高石の両氏に会い、時事を毎日に合同する話合いが成立していたから、毎日はその題号に時事新報の名を加えることによって、新たに時事の読者を獲得する事が出来たのであるが、この引継ぎに当たっては、当時毎日の販売部長だった七海又三郎氏の非常な努力による適切な働きが、大きな効果を奏したのであった。同じく時事合同のお土産として引継いだ小学生新聞の発行、天象儀(プラネタリウム)の設置(これは先年の戦火で焼失したが)、音楽コンクール等、今日一般の好評を博しているのを見れば、時事を毎日に合同した奥村、高石両氏の卓見のほども窺えるというものだ。
昭和十二年(1937)の四月であったが、毎日の東京社屋が拡張の必要に迫られ、新社屋を建築することになった。そのための別会社に東日館(のちに毎日館)を創設、資本金百二十万円、そのうち六十万円は毎日で受持ち、残り六十万円は私が引受け、門野重九郎氏、加藤武男氏、池田成彬氏、大倉喜七郎氏、小林一三氏、津田信吾氏等の出資を得て、更に長期低金利借入金八十万円により、合計二百万円の金で、三千六百坪(地下一階地上八階)の建築に取掛ったのであった。
・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・
そんな事もあり、私も大株主となったので、昭和十三年(1938)九月、毎日の取締役に就任することになった。一方東日館の建築であるが、これは前にも云った如く別会社の組織だったから、社長に奥村信太郎氏、専務取締役に私が就任することになり、鋭意、建築を進めていたのだが、この建築中、私は再び時事解散の時に劣らぬ大難関」に逢着することになった。この時にはもう日華事変が始まっていて、戦火は日増しに拡大する一方だったし、統制経済が強行され、物資の節約が喧しく云われ、不急の計画はすべて中止させるという政府の方針だったから、東日館にも建築中止命令が天降って来た。しかし建築資材全部は既に購入済みだったし、天象儀(プラネタリウム)設置の準備も出来ている。もちろん国家が今どんな事態にあるかは充分承知しているが、有志者から出資を仰いで一旦建築に取掛り、それも半ば進んだ今、おいそれと中止するわけにもゆかないのである。私は東日館の責任者としても、これだけは竣工せしめたいと思った。そのためにたびたび当局へ出向き折衝を続けても、軍部の尻押しで政府の鼻息は頗る荒い。軍部官僚跋扈の時代がもう来ていたのだ。だから態度も初めから威圧的である。
「国家の法が不急と認めて中止を命ずるのだ、国策である、国民として国策に応じないとは云えないだろう」威嚇とも思われる言葉に、しかし屈してはいられなかった。「この建築が中止になれば従って屋上の天文館も出来ない、天象儀(プラネタリウム)の設置により、その使命を充分に発揮せしむることが、却って国策に順応するのではなかろうか、すでにその準備も出来ているし、殊に新聞活動に絶対必要な建築である、資材全部も購入済みで、新しく買い入れるのではない、再考慮のうえ是非承認されたい」私も主張した。が今度は政府が相手だから容易ではない。」と、
こうして、政府、特に大蔵省の官僚との折衝が延々と続きます。「こっちの方針を肯かんのなら引っ括ってしまえ」との声も聞かれました。しかし、政府の出方一つで東日館の運命がきまるのです。前田は日々が勝負のつもりで当局に出かけて行きました。信念と熱意を唯一の味方に、承認されるまで通いつめる決心でした。そして、とうとう熱意に根負けしたのか、「君も強情な男だ―――」と苦笑し、特別に建築の継続が許されたのです。
『日々これ勝負』には、
「そうなると話は早く進んで、特別に建築の継続が許可されたのであった。東日館万歳である。これで私もホッとしたのであるが、時事解散の時とは違って、厳しい統制時代を背景に強腰の政府が相手だったから、それだけずいぶん苦労であった。
かくて最初の予定通りに、なんの変更もなく、昭和十三年(1938)十月、近代式コンクリート、地下一階、地上八階の建築が竣工した。新社屋の地下一階はニュース映画、地上は新聞関係、貸室に充て、八階、屋上には天文館を開設、そこには精巧な天象儀(プラネタリウム)を装置、学界、教育界、一般人のための天体運行の研究に寄与しようとしたものだ。これは私が時事時代に、なんとか社の収入を増そうと小学生新聞とともに考えたもので、云わば時事合同のお土産だったから大いに力を入れた。この天象儀(プラネタリウム)はその前年、大阪の電気博物館に装置されただけだったから、世の注目をひき、最初の一年間に入場者百数十万人を数えるほどの盛況だった。」とあります。
< 10.にもどる | 12.にすすむ > |