連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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前田久吉著『日々これ勝負』2/16
~東日天文館建設の大難関~

更新日 2015.2.18

時事新報社の誕生と没落(1)

大阪電気科学館のプラネタリウムは、大阪市電気局が発足して10年を迎える記念事業の一つとして実現しました。電気科学館の建設が計画されると、当時、電灯部長だった木津谷栄三郎氏が欧米の視察から帰り、電気科学館を世界に誇る施設とするには、是非ともプラネタリウムの導入が必要と力説したことによります。
それでは、東日天文館のプラネタリウムの場合はどうだったのでしょうか。それは、実は時事新報社の誕生から始まるのです。
明治32年(1899)に時事新報社から発行された『福翁自伝』につぎのようにあります。
「明治十四年(1881)の頃、日本の政治社会に大騒動が起こって、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年(1880)の冬、時の執政大隈、伊藤、井上の三人から私方に何か申して参って、或る処に面会して見ると、何か公報のような官報のような新聞紙を起こすから、私に擔任して呉れろと云う。
一向趣意が分からぬから、先ず御免と申して去ると、其後度々人の往復を重ねて話が濃くなり、とうとう仕舞に政府はいよいよ国会を開く積りで其用意の為めに、新聞紙も起こす事であると秘密を明かしたから、是れは近頃面白い話だ、ソンな事なら考へ直して新聞紙も引受けようと凡そ約束は出来たが、マダ何時からと云う期日は定まらずに、其まゝに年も明けて明治十四年と為り、十四年も春去秋来、頓と埒の明かぬ様子なれども、此方も左まで急ぐ事でないから打遣て置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前至極同主義でありし隈、伊、井の三人が漸く不和になって、其果ては大隈が辞職することになりました。扨大隈の辞職は左まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍しくもない事であるが、此辞職の一条が福沢にまで影響して来たのが大笑いだ。」とあります。
(なお、読み易いように文章には句読点を付し、年号にはカッコ内に西暦年を記しました。)

(写真)明治32年6月 時事新報社発行の『福翁自伝』

↑明治32年6月 時事新報社発行の『福翁自伝』

要約すると、福沢諭吉は、政府の大隈重信や伊藤博文、井上馨の要請を受けて、政府系の新聞を作る予定でした。しかし、明治14年(1881)の政変によって大隈重信や大隈派の官僚が失脚すると、その計画も頓挫してしまいます。しかし、政府系新聞を作るために、既に記者や印刷機械などを準備していたために、慶應義塾で独自に新聞を発行することになります。それが、「時事新報」です。

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