更新日 2015.2.25
『福翁自伝』にはこうあります。
「ソレから明治十五年(1882)に時事新報と云う新聞紙を発起しました。丁度十四年政府変動の後で、慶應義塾先進の人達が私方に来て頻りに此事を勧める、私も亦自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、相互に敵味方が出来て議論は次第に喧しくなるに違いない、既に前年の政変も孰れが是か非かソレは差置き、双方主義の相違で喧嘩をしたことである、政治上に喧嘩が起これば経済商売上にも同様の事が起こらねばならぬ、今後はいよいよますます甚だしい事になるであろう、此時に当て必要なるは所謂不偏不当の説であるが、扨その不偏不黨とは口でこそ言へ、口に言ひながら心に偏する所があって、一身の利害に引かれては迚も公平の説を立てる事が出来ない。ソコで今国中に聊かながら独立の生計を成して多少の文思もありながら、其身は政治上にも商売上にも野心なくして、恰も物外に超然たる者は鳴呼がましくも、自分の外に適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、遂に決心して時事業に着手したものが、即ち時事新報です。」
時事新報というのは、
「専ら近時の文明を記して、この文明に進む所以の方略事項を論じ、日新の風潮におくれずして、これを世上に報道せんとす。」というのが、紙名の由来です。
この時事新報は、明治15年(1882)3月1日に、福沢諭吉の手によって創刊されます。創刊当時から「不偏不党」を掲げ、平易で明晳なことや経済を重視する紙面が、政党色の強かった当時の新聞から見れば新鮮に映ったのか、わずか1,500部程度だった発行部数も、2年後には5,000部に増加しました。明治29年(1896)にはロイター通信社と独占契約を締結し、大正10年(1921)のパリ講和会議やワシントン軍縮会議で伊藤正徳特派員が世界的スクープを獲得するなど大活躍しました。そして、大正中期までは「日本一の時事新報」と呼ばれ、東京5大新聞(東京日日、報知、国民、東京朝日、時事)の一角を占めるまでになりました。
『福翁自伝』には、
「決断した上は、友人中これを止める者ありしが、一切取合わず、新聞紙の発行数が多かろうと少なかろうと他人の世話になろうと思わず、此事を起すも自力なれば倒すも自力なり、假玲ひ失敗して廃刊しても、一身一家の生計を変ずるに非ず、又自分の不名誉とも思わず、起すと同時に倒すの覚悟を以て世間の風潮に頓着なしに今日までも首尾能く遣って来たことですが、畢竟私の安心決定とは申しながら、其実は私の朋友には正直有為の君子が多くて、何事を打任せても間違いなど云う忌な心配は聊かもない、発行の当分何年の間は中上川彦次郎が引受け、其後は伊藤欽亮、今は次男の捨次郎が之に任じ、会計は本山彦一、次で酒田実、今は戸張志智之助が専ら担任して居ますが、私の性質として、金銭出納も細目を聞たこともなく、見たこともなく、其人々のするがまゝに任かせて置いて、曾て一度も変な間違いの出来たことはない。誠に安心気楽なものです、コンな事が新聞事業の永続する訳けでせう。」とあります。
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