連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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前田久吉著『日々これ勝負』4/16
~東日天文館建設の大難関~

更新日 2015.3.4

時事新報社の誕生と没落(3)

ところが、関東大震災で被災した後は、業績が悪化し部数も低下します。昭和7年(1932)、鐘淵紡績の社長だった武藤山治が社長になると、昭和9年(1934)1月から武藤社長が率先して行った「番町会を暴く」シリーズは、財界の不正を糾弾し、帝人事件にまで発展します。
「番町会」というのは、昭和8年(1933)頃から、郷誠之助の番町の私邸に集まった財界の若手実業家、水野護、長崎英造、河合良成、小林中、正力松太郎などのグループのことです。
また、「帝人事件」とは、帝人(帝国人絹)という鈴木商店系の人絹会社が、そのころ人絹ブームに乗って営業成績を向上させていました。ところが、金融恐慌以来、この会社の株22万株が台銀の担保に入っていました。この株価の上昇が見込まれていたので、金子直吉(鈴木商店)等は、この際、台銀からそれを買い戻そうということになり、その斡旋を番町会の面々に依頼したのです。特に、水野護が中心となり、正力が永野の依頼で活躍したといわれていますが、彼は鳩山一郎や黒田英雄大蔵次官などに働きかけて、島田茂台銀頭取を動かして、ついに11万株の払い下げを実現させました。その際、株価の問題で金子等と折り合いがつかなかったので、永野等は別に買受団を作り、1株125円でこれを買い取りました。それと同時に帝人が増資を決めたので、この株はたちまち140~150円に上がり、永野等は大儲けしました。これが暴露されたおおよその内容です。
武藤山治社長の「番町会を暴く」シリーズは、鋭い記事で大きな波紋を呼びました。その中で、武藤が帝人事件の疑惑を報道した直後の3月9日、鎌倉の別邸を出たところで、福岡県出身の福島新吉(無職)に銃撃され、翌日に死亡しました。このことによってシリーズは終了し、時事新報の前途はますます厳しいものになります。
その後、慶應義塾出身で東京日日新聞(現:毎日新聞)の高石眞五郎に経営肩代わりの話がきますが、高石は東京日日新聞の経営自体が傾いた時期でもありこれを断ります。その代り、東京日日新聞の社外役員でもあり、大阪で「夕刊大阪新聞」や「日本工業新聞」を発行していた前田久吉を推薦し、昭和10年(1935)11月から前田が専務となって経営に当たりました。

(写真)前田久吉(『日々これ勝負』の口絵より転載)

↑前田久吉(『日々これ勝負』の口絵より転載)

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