連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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前田久吉著『日々これ勝負』5/16
~東日天文館建設の大難関~

更新日 2015.3.11

時事新報社の誕生と没落(4)

その辺りのことを、前田久吉は『日々これ勝負』に、
「断食後、身体の調子は頗る佳良だ。
私は捲土重来の意気を以て、夕刊大阪と日本工業新聞の社務に鞅掌した。月のうち半分は東京に、残りの半分は大阪に、毎月東京大阪間を往復して身辺は再び多忙となったが、断食前に比べると、ぐっと気力が出て来た。
この間時事新報の立直しを引受けることになったのだが、実際こんな事は思ってもいなかった。人間何にぶつかるか、全くその時になって見ないとわからない。
時事新報は明治十五年(1882)三月福沢諭吉先生によって創刊され、慶應義塾系の新聞として“日本一の新聞”とまで云われる程の伝統を持っていたが、次第に不振を伝えられ、経営打開のため幾度か最高首脳の更迭があったのち、武藤山治氏を迎えることになった。
四十代以上の人は武藤山治氏の名を憶えていよう。明治大正昭和の三代にわたって政界実業界雄飛し、大鐘紡の恩人であるこの人が、最高責任者として時事新報にはいったのは昭和七年(1932)五月の事で、新方針による経営振りは新聞界でも注目を集めたものだ。ところが昭和九年(1934)三月九日の朝、神奈川県大船町の別邸を出て、いつもの如く時事に出勤する途中、一兇徒の狙撃を受けて翌十日遂に死亡した。享年六十八。まことに惜しい人物であった。
武藤氏を失ったのは時事にとって大不幸だった。この人亡き後の時事は、再び不振の一途を辿るかに見えた。名門日本一の歴史的新聞に衰退の色が日増しに濃く、どうもうまくゆかないという評判は、私もたびたび耳にしていたし、また慶応出身の財界有力者が後援してなんとか立直したいと躍起になっているという事も、しばしば聞いていた。
すると思いがけなく、実に思いがけなく、この時事新報の立直しを引受けてくれぬかとの相談が、私の処へ持ち込まれて来たのだ。初めは白羽の矢が、当時毎日新聞の主筆高石真五郎氏に立てられたらしい。しかしたとえ高石氏が三田出身であろうとも、この際毎日から時事に行く事は第一毎日に難色があったし、当人自身もまた立場上そうもゆかなかったようだ。そこで時事後援者の一人である三田出身の加藤武男氏が、更に高石氏や奥村信太郎氏(当時毎日専務三田出身)に会い、適当な経営者の推挙を依頼し、高石氏や奥村氏が協議した上、適任者として私を推挙した、というのが、私へ相談が持ち込まれるまでの径路だったと思う。高石氏や奥村氏、加藤武男氏やその他有力な人達からも度々熱心な話が私にあった。しかし私には二つの新聞があり、多忙を極めている際だから、もちろん固辞した。二つの新聞は育てゝ来ても、福沢先生の名に輝く名門の新聞を引受ける器ではないと、そのたびに断った。事実私はそう思っていた。だが相手方は言葉を尽して説いて来る。その熱意、千己の感、しまいには日本一のこの新聞をそのまゝ見過すことの出来ないような気にもなり、とうとう引受ける事になってしまったのだ。
でいろいろと相談の結果、向う一ヵ年は私が責任をもってやる、今までの負債はそっちで片づけて貰うかわり、これからの赤字はこっちで引受ける。一年後見込みがついたら増資三百万円にする事等の条件で、今の場合社長は置かず、当分英文毎日主幹だった松岡正男氏が会長に任じ、私が代表専務取締役という格で、松岡氏と二人時事に出かけて行ったのは、断食の年の昭和十年(1935)、十一月の初めであった。」
と書いています。
さて、実際に行って見ると、経理の状態は実にひどいもので、発行部数や広告収入に比べると社員の数が多すぎます。また、最初の話では、あまり負債は無いということだったが、無いどころか山ほど溜まっていました。行ったその日から債権者が入れ替わり立ち替わり来る。王子製紙からは、たまっている用紙代35万円をすぐ払えと矢の催促で、もし払わなければ紙を止めるという始末です。前田が経営立直しに託されたお金は、時事の後援者からかき集めた50万円そこそこで、35万円払ったら15万円しか残りません。それでも、前田はそれをきれいさっぱり払いました。前田は、松岡氏と相談しながら、これまでの経験によって方針を立て、必要経費を極力抑え、一方では発行部数の拡大と広告の増収に積極策をとりました。前田は、これまで新聞では随分苦しんで来たから、少々の苦労は慣れています。こうして、昭和10年(1935)はまたたく間に暮れて、翌昭和11年(1936)となりました。ところが、ようやく立直しの兆しが見え始めた矢先に、とんでもない事件が起こるのです。

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