更新日 2015.3.25
↑(写真)『朝日新聞七十年小史』昭和24年 朝日新聞社発行
昭和24年発行の『朝日新聞七十年小史』(非売品)に、
「午前八時五十分頃トラック三台に分乗した部隊は突如東京朝日新聞社に来襲し社を包囲する態勢をとって機関銃を据付けた。はじめは社員の誰もが警備にために来たのだろう位に考えていたが、その内部隊を引率して来た中橋基明中佐は拳銃をさしつけ「社の責任者に会いたい」と申込んだので、緒方主筆が出て行って応酬すると、早暁高橋是清を暗殺して興奮し切った中橋は「国賊朝日新聞社を破壊するのだ」と大声に叫ぶので、緒方主筆は徐ろに「社内には女子供もおるので、それを出すまで待て」と制止し急を聞いて出社していた社員全部に一時避難するように求め、大阪電話によって事態を大阪本社に通報していると、早くも剣付銃を凝した反乱兵の一同は怒声をあげて駆け上がって来た。暴徒化した兵士は社内の各室で狼藉を極めたが、実際の被害は工場の活字ケースを覆す程度に止った。当時の判決文を引用すると
『栗原安秀(中尉)、池田俊彦(少尉)、中橋基明(中尉)、中島莞爾(工兵少尉)は、二十六日午前九時頃下士官兵約五十名を指揮し、軍用自動車三両に分乗して東京朝日新聞社を襲い、同社をして一時新聞発行を不能ならしめ、次いで東京日日新聞社、時事新報社、国民新聞社、報知新聞社および電報通信社等の各社を廻り、決起趣意書を配布し、これが掲載を要求して首相官邸に帰還せり。』
とある。午後零時半頃兵隊も引揚げたので、全社員は再び社に帰り、当日の夕刊発行が不能だっただけで、二十七日朝刊からは新聞を発行した。」とあります。
東京朝日新聞社の被害は、活字ケースをひっくり返す程度で済みましたが、時事新報社はどうだったのでしょうか。
『日々これ勝負』には、
「間もなく騒擾部隊の部将松尾大尉その他が兵を率い、雪をかぶってどかどかッと室内へはいって来た。ドァーが開け放されたまゝで、廊下の向うにも兵がいるらしく、あたりが雪まみれになっている。この一団が去ると次から次にやって来て、圧迫を加えようとする。騒擾部隊としたら、自由になる報道機関もほしかったろう。窓から覗くと、雪空が低く、あっちにもこっちにも騒擾部隊の一団が見え、銃剣が閃き機関銃が構えられている。悲壮と云おうか凄惨と云おうか、私は日本の運命がつくづくと考えられた。」とあり、これといった被害はなかったようです。
翌27日になると戒厳令が布かれ、武装軍隊が出動して、香椎陸軍中将が司令官に任ぜられました。騒擾部隊は、初め決起部隊と呼ばれ、それが騒擾部隊となり、解散を承知しなかったために反乱部隊となりました。警備軍は反乱部隊を鎮圧すべく、丸の内あたりの立ち退きを命じ、ジリジリと包囲網を固めていきます。一方反乱軍は、首相官邸から赤坂方面に集結して気勢を上げます。同じ国の同じ軍隊が双方に別れ、武器を取って対峙して、今にも銃弾が飛び交いそうな噂に、東京中が戦慄し、夜に入りまた朝を迎えます。
警備軍は、包囲体制を整える一方、何とか流血だけは避けたいと、反乱部隊の首脳部将校を説得するのだが、決意が固くなかなか承服しません。そこで、「兵に告ぐ」と題し、「今からでも遅くない、早く隊に帰れ」という解散勧告文を飛行機から反乱部隊の頭上にバラ撒いたのはこの時です。
そして、28日になると、反乱部隊の気勢もようやく収まってきて、発作的な興奮からさめた兵達は、ぽつりぽつりと原隊に帰りはじめ、夕方にはその姿も急に増えました。そして、指揮者の野中四郎大尉が自決したとの情報が流れます。
29日(この年は閏年で、2月は29日までありました)、事件発生から4日目です。くもり空で雪がまだ残っていましたが、警備軍の誠意ある行動で、反乱部隊も遂に鎮圧されました。野中四郎大尉その他幹部将校は、或は自決し、或は収容され、兵は原隊に帰って隔離謹慎、4日間に渡って日本全土を震撼させた事件は、一応終結をみました。
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