連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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1インチ望遠鏡の「甲号」 4/22
~天文趣味民衆化の爲め大量生産廉價提供~

更新日 2016.3.14

最初に作られた1インチ望遠鏡の「乙号」(2)

また、別の頁には、

「科学画報が昭和元年の九~十一月号の三回にわたって、私の望遠鏡の特徴を、微に入り細に入り宣伝してくれたことにより、最初に販売した月(翌年一月)には、百台を売ることができた。そしてその次の月には、百二十台となり、又々その次には、百五十台と売りゆきが伸びていった。その結果、全国の小学校に多数の五藤光学の望遠鏡が、わずか一年の間に行きわたることになった。」とあります。

これは、明らかに1インチ望遠鏡の「乙号」の話しで、科学画報社代理部が宣伝したのが大正15年(昭和元年)の9~11月号です。従って、最初に販売したのは「翌年一月」とあるので、昭和2年の1月ということになります。

しかし、これは少し正しくありません。『科学画報』の大正15年9月号に掲載されたのは「太陽投映機」の記事で、1インチ望遠鏡の広告が掲載されたのは11月号と12月号の2冊だけです。

(写真)『科学画報』大正15年9月号

↑『科学画報』大正15年9月号

(写真)『科学画報』大正15年11月号

↑『科学画報』大正15年11月号

(写真)『科学画報』大正15年12月号

↑『科学画報』大正15年12月号

これらの広告は、もちろん1インチ望遠鏡の「乙号」についてのものです。ところで、翌、昭和2年の3月になると、今度は『科学知識』に1インチ望遠鏡の広告が掲載されるようになります。

(写真)『科学知識』昭和2年3月号

↑『科学知識』昭和2年3月号

しかし、この広告をよく見ると、鏡筒が金属製になった1インチ望遠鏡の「甲号」と、従来の鏡筒が紙製の「乙号」の両方が掲載されています。そして、同様の広告がの4月号、5月号、6月号、7月号、9月号とつづきます。その後、昭和3年の1月号と2月号からは「乙号」の名前が消えて「甲号」だけの広告になり、さらに4月号からは、口径二吋四分の一、即ちウラノス号の広告になります。

(写真)『科学知識』昭和3年1月号

↑『科学知識』昭和3年1月号

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