更新日 2016.3.22
また、1インチ望遠鏡の広告は、昭和3年3月号から、今度は、『子供の科学』に掲載されることになります。3月号は「乙号」だけの広告ですが、学生服を着た生徒が望遠鏡を覗いている写真が掲載されています。鏡筒が鏡筒バンドで架台に固定されていますので、これは間違いなく「乙号」です。4月号と5月号には「乙号」と「甲号」の両方の広告が掲載されていますが、挿絵の方は「甲号」のイラストになっています。
↑『子供の科学』昭和3年3月号
↑『子供の科学』昭和3年4月号
このように、1インチ望遠鏡の雑誌広告は、『科学画報』に始まり、『科学知識』、『子供の科学』と矢継ぎ早に打っていて、五藤齊三氏が天文学の民衆化にかけた並々ならぬ情熱の程が窺われます。
五藤齊三氏の『天文夜話』と、これらの雑誌広告を見ると、大正15年9月に五藤光学が設立され、わずか数ヶ月の間に1インチ望遠鏡の「乙号」が開発されると、科学画報社の代理部が一手販売を買って出て、『科学画報』の大正15年11月号と12月号で大々的に宣伝します。販売を開始したのは昭和2年の1月になってからですが、その甲斐あって月に100台を売ることができました。そして、その次の月(2月)には120台となり、又々その次(3月)には150台と売れ行きが伸びて行きました。『科学知識』の昭和2年3月号に、既に「甲号」の広告を載せているのを見ると、「乙号」の販売を開始してから、わずか3ヶ月後には「甲号」が出来ていたことになります。従って、当時は、きちんとした製作図面(正面図、側面図、平面図)などは書かれず、簡単な立体図(マンガとよばれる図)だけで製品を作っていたのではないでしょうか。
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