更新日 2016.7.25
◆1インチ望遠鏡の雑誌広告を見ると、大正15年の11月号と12月号に「乙号」の広告が掲載され、昭和2年3月からは、「乙号」と「甲号」の両方の広告が掲載されるようになります。それが、昭和3年の1月になると、「乙号」の名前がなくなり、「甲号」だけの広告になります。ただ、大正15年11月の広告の挿絵を見ると、実際の「乙号」とほとんど変わらないので、この時点で「乙号」は既に出来ていたと考えられます。
◆また、五藤齊三氏の『天文夜話』によれは、1インチ望遠鏡「乙号」を販売したのは、昭和2年1月からだといいます。当時の望遠鏡の販売は、科学画報代理部が雑誌で宣伝し、購入希望者が代金を送ってくると注文を受け、注文がある程度まとまったところで望遠鏡を発送するという方法だったようです。従って、大正15年の11月から注文を受け、昭和2年1月から望遠鏡を発送したのではないでしょうか。
◆さらに、『山口県教育』の昭和2年2月号に掲載された恵藤一郎氏の「天体望遠鏡の研究」に、1インチ望遠鏡には「乙号」と「甲号」の2種類あったことが既に記されています。原稿を脱稿してから『山口県教育』が発行されるまで1ヶ月程かかると思われますので、昭和2年1月の時点で「甲号」が製品化されていたか、あるいは宣伝広告がなされていたと思われます。
◆そこで私は、五藤齊三氏は、大正15年9月に五藤光学を設立すると、直ぐに「乙号」の開発にとりかかり、11月までに最初のロットが完成していたものと考えます。そこで、「乙号」の不具合を解消するための改良を行い、昭和2年1月には「甲号」が完成していたか、それに近い状態にあったと思われます。そして、昭和2年3月から雑誌で大々的に宣伝したものと考えます。しかし、「甲号」は多少コストがかかり、定価を40円にせざるを得ませんでした。従って、それよりも安い「乙号」もしばらく販売を続けたのでしょう。
しかし、これは天体望遠鏡マニアの戯言です。
それでは、1インチ望遠鏡「甲号」の全体像をご覧ください。天体望遠鏡は実に単純な構造ですが、じっと「甲号」の姿を眺めていると、“素晴らしいなあ”と感じます。白色の鏡筒の両端を黒色の対物レンズ部と接眼部が締め、それを受ける重厚な鋳物の架台、そして、そこから下にすらりと伸びる細い脚、その美しいフォルムに感心するのは、一人私だけでしょうか。
↑1インチ望遠鏡の「甲号」
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