連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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国産プラネタリウム海を渡る 4/4
~「星への誘い」の放送用録音テープに見る当時の五藤光学研究所~

更新日 2018.5.28

ラジオ番組「星への誘い」(4)

そして、昭和37年(1962)10月に、予てから府中市に建設中だった新社屋で完成披露会が開かれました。

(写真)セントルイス市向け大型プラネタリウム披露会の受付

↑セントルイス市向け大型プラネタリウム披露会の受付

(写真)セントルイス市向け大型プラネタリウムの披露会

↑セントルイス市向け大型プラネタリウムの披露会

当時、五藤光学は、プラネタリウムという新しい商品を手中にし、そのラインナップも完成して、後はひたすら宣伝につとめ販売するだけでした。そこで、PRの一環として考えられたのが、TBSのラジオ番組「星への誘い」だったのです。
こうして、セントルイス市のプラネタリウムは、昭和38年(1963)2月にオープンしました。
ところで、セントルイス市と大型プラネタリウムの契約が無事に出来たことについては、つぎのようなエピソードがあります。
セントルイス市の大型プラネタリウムの入札は、昭和35年(1960)8月15日に行われ、五藤光学は米国の総代理店の三菱商事に依頼して入札し、一番札をとりました。しかし、米国の習慣で、一番札をとったからといって、すぐに契約するわけではありません。調査の結果、気に入らなければ、二番札、三番札と順次繰り下げて行くということで保留になっていました。
一方、そのころ米国側では、セントルイス州を選挙地盤とするバンデンバーグ上院議員に依頼して、米国中の天文台に、日本の五藤光学を知っているかという調査をしていました。その結果、全部知っているという返事だったので、無事契約に至ったということです。
そのことを、後に日本大使館の朝海大使が、「どうして日本の中小企業の五藤光学の名前をみな知っていたのか」と五藤齊三氏に尋ねたそうです。
そこで、五藤齊三氏は、一つは、昭和11年(1936)6月19日の北海道日食の際、五藤光学と朝日新聞社が共同で観測し、その観測報告が米国の『アマチュア・アストロノミー』誌に掲載されたこと。
それと、もう一つは、昭和23年(1948)5月9日の礼文島の金環日食のとき、米国の観測隊が、シーロスタットが重く飛行機に積めないので、日本に戦後処理費で作らせ、使用後は日本の大学に置いて行くということで持って来なかった。そこで、当時の東京天文台長の萩原雄祐博士から、米軍の命令だから慎重に作るよう依頼があり、五藤光学では15万円の見積りを出してこれを作った。ところが、使ってみると非常に具合が良かったので、予定を変更して米国へ持ち帰った。そのようなことがあったので、米国の天文台の方々がみんな知っていたのでしょうと、話したということです。



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