更新日 2022.4.1
それから、しばらく経った2018年に、望遠鏡仲間の小松雄一さんから、山崎氏の遺品のコピーが戻ってきたという連絡があり、予てからお願いしておいた「天文日記 #2」のコピーが4月3日に届いた。また、5月11日に、小松さんから田中真一さんの資料が届いた。
↑田中さんの資料の中に入っていた遺品の写真
そこで、写真の左下に写っている、すばる会の機関誌『宇宙』のコピーがあればお貸しいただきたいとお願いした。すると、6月27に『宇宙』のコピーが届いた。
↑すばる会の機関誌『宇宙』1959年8月10日号
“THE UNIVERSE”というタイトルの下に、「故山崎正光氏追悼記念号」とあり、最下段に「宇宙1959.8.10 Vol.7, No.37」とある。親しかった人々の追悼文とともに、山崎氏は数年間病床生活をしていたが、昭和32年12月、71歳の時に病床の中からすばる会の機関誌『宇宙』に執筆した“My path in Astronomy”(私の天文学経路)が、全文再掲載されている。『宇宙』は、愛知県岡崎市明大寺町の牧師、平岡昌子さんが編集されていたものである。
↑山崎健臣さん(左)と菊池芳雄さん夫妻
この「私の天文学経路」は、誠文堂新光社発行の『天文ガイド』の昭和46年(1971)3月号から6回に亘って連載され、その後、昭和49年(1974)7月号の月刊天文ガイド別冊『彗星・その天文学と捜索者たち』に全文が再録された。その基になったものである。
また、田中さんの資料の中に、田村輝雄さんから渡されたというメモが入っていた。そこに、山崎正光氏の長男健臣さんのお子様(山崎昇さん)のメールアドレスと電話番号が書かれていた。そこで、早速電話してみたところ、「自分の父(健臣)は本家に養子に入ったので、祖父(山崎正光)の直系の子孫ではなくなりました。従って、祖父のことについては、次男(明)の子どもたちに尋ねてください。」といって連絡先を教えていただいた。
↑右から小沢昌記市長、山崎明さん、佐藤孝守教育長
一つ前の写真は、昭和60年(1985)、緯度観測所時代に山崎氏の部下だった菊池芳雄夫妻が、山崎氏の墓参りに訪れた時のものである。左から山崎氏の長男健臣さん(62)、菊池芳雄さん(72)、菊池芙美子さん(71)。
つぎの写真は、平成22年(2010)6月に、山崎氏の次男明さんが、奥州市に山崎氏が頂いたドノホー賞牌と著書(『天体望遠鏡の作り方』の原本と復刻版)を寄贈した時に撮られたものである。左から小沢昌記奥州市長、山崎明さん(80)、佐藤孝守教育長。
こうして、令和元年(2019)が山崎氏没後60年に当たるところから、山崎氏の「私の天文学経路」と「天文日記 #2」を中心に、山崎氏の生涯を「星夜の逸品」で紹介することにして、ご遺族方々にも了承を頂いた。ところが、2019年度の1年間、国立科学博物館の産業技術史資料情報センターの主任調査員として、プラネタリウム技術の系統化調査を行うことになった。そこで、山崎氏の没後60年には間に合わなかったが、今回ようやく「星夜の逸品」に掲載することになった。楽しんでいただければと思う。
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