更新日 2022.2.25
「異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.1 5/13」に掲載した、2回以上出現の周期彗星の軌道の表から、23のPons-Coggia彗星の軌道要素を下に記す。
彗 星 名 | ポンス・コギア |
---|---|
属(族) | 天王星 |
近日点通過(T) | 1928年11月4日 |
近日点引数(ω) | 195.9° |
昇交点黄経(Ω) | 250.1° |
軌道面傾斜(i) | 28.9° |
近日点距離(q) | 0.745 |
離 心 率(e) | 0.919 |
周 期(p) | 27.90年 |
最初の出現 | 1457年 |
最近の出現 | 1928年 |
出現の回数 | 4回 |
次回の出現 | 1956年 |
この彗星は、昭和3年(1928)10月28日の早朝、水沢緯度観測所の山崎正光氏が、しし座χ星の近くに日本人としてはじめて発見した新彗星である。しかし、詳しい星図や星雲のカタログがなく、天候も悪かったので見失ってしまった。ところが、この彗星は、同年の11月21日にケープタウンのフォルベスによって再発見されたが、再び謎の失踪を遂げた。その後、イギリスの天文学者クロンメリンが軌道を詳しく研究し、この彗星が、1873年のコギア・ウィンネッケ彗星、1818年のポンズ彗星と、同一の彗星であることを指摘した。その結果この彗星は、その後「クロンメリン彗星」と呼ばれることになった。上に掲げた軌道要素からも分かるように、この彗星の周期が約27.90年であるから、再び太陽の近くに戻ってくるのは、28年後の昭和31年(1956)である。
そこで、昭和29年(1954)8月のある日、東亜天文学会の本部である滋賀県の山本天文台で、第1回目の彗星会議が開かれた。これは、当時盛んになってきた彗星の研究に答えて、山本一清博士と長谷川一郎氏の発案で開催されたものである。普通は、参加するかどうかは参加者側が決めるのだが、この時代は主催者側が参加者を選定するという形式だったようだ。この時は、長谷川一郎氏、古川麒一郎氏、渡辺敏夫氏、三谷哲康氏、本田実氏、関つとむ氏、小槇孝二郎氏、など20数名が全国から集まった。天文台の主人の山本一清博士は、滋賀県の生まれで、京都帝国大学物理学科を卒業後、水沢緯度観測所に勤務し、測地学委員会の委託で重力偏差を測定、観測地点は280ヶ所に及んだと言われている。「水沢における大気屈折の影響に対する特殊装置による緯度変化の同時観測」で理学博士、その後京都帝国大学教授を経て花山天文台長を兼任する。そして昭和13年(1938)京都帝国大学を退官するという経歴の持ち主だが、大正9年(1920)に東亜天文学会を主宰、雑誌「天界」を創刊した。また、昭和15年(1940)私費で山本天文台を創立、天文学の普及に務めた。
↑五藤齊三氏(左)と山本一清博士(右)
ところで、この会議の席上しばしば話題に上ったのは、26年前に失踪したクロンメリン彗星のことだった。会議が終わって、就寝前のひと時を久々の会合で歓談していると、山本博士が現われて関さんを書斎に呼び、「今から26年前、水沢で山崎君が発見したホーキ星が2年後に帰って来る。軌道の良く知れた周期彗星は、専門家が写真的に発見するだろうが、今度のクロンメリンは軌道がしっかりしていない、いわば失踪したも同然の彗星だ。こうなると、専門家は探さない。熱心なアマチュアが、眼視的に広い範囲を捜索する必要がある。そのためにもぜひ君に協力を願いたい。山崎君は君と同じ高知県の出身なんだよ。」と説得した。そこで、関さんは、必ずクロンメリン彗星を発見するという決意を固め、山本天文台を後にした。
< 7.にもどる | 9.にすすむ > |