連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.1 9/13
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.3.4

 ある日、関さんは東亜天文学会から送られてきた会員名簿の新入会員の欄に山崎正光氏の名前を見つけ、1955年の晩春に高知県西佐川局区内九段田を訪ねる。そして、山崎氏と失踪したクロンメリン彗星の追跡について検討する。しかし、27年前に発見位置を記入した“シューリッヒ星図”が行方不明で、決定的な資料が得られなかった。その後、山崎氏と関さんはこの彗星を確実にキャッチするために、過去28年間の惑星の摂動を計算する計画を立てる。しかし、基礎となる軌道が不確実なこと、摂動を計算するには最低でも6ヶ月はかかることなどから、今から準備しても間に合わないと考え、この計画は中止することにした。そして、もし28年間に惑星の摂動を全く受けなかったと仮定すれば、クロンメリン彗星は1956年の10月頃に、東天のしし座に現われることになる。1928年の発見位置は、しし座のどの当たりだったのだろうか? 
 その後、1956年の初夏になって、山崎氏からシューリッヒ星図が見つかったとの連絡があり、関さんは喜び勇んで飛んで行く。そして、その星図を預かって帰り、28年前の発見位置を基準にして、ある理論に基ずくクロンメリン彗星の軌道を想定する。ちょうどその頃、英国の大英天文協会から、クロンメリン彗星の捜索予報が発表された。
 関さんは、シューリッヒ星図に記録された28年前の発見位置に基き3種類のコースを予想して、捜索の計画を着々と進めていた。そして、彗星の光度は、大英天文協会の値より遥かに暗いものと予想した。こうして、1956年10月6日の午前3時頃、観測台に駆け上がり、接眼レンズに眼を当て、視野を流れる星影を眺めていると、異様な光体が横切った。関さんはハッとして視野を戻すと、まるで人魂のような、光り輝く青白い光体が、静かに止まっている。関さんは、とっさにかの失踪星と結びつけた。
 これが、果たして、28年前、山崎氏が見たのと同じイメージであったろうか? そして、更に500年の昔、イタリアや、日本の空に現われた、ホーキ星と同じものであったろうか? 場所も、奇しくも、28年前と同じ、しし座の一角である。光度は10等、もちろん星図には出ていない。明らかに、よそからの闖入者だ。
「クロンメリンに違いない。クロンメリンが帰って来たのだ!」関さんは、夜明けを待って、山崎正光氏に、〔クロンメリンスイセイミユ〕の電報を打つ。続いて、滋賀県の山本一清博士と、東京天文台にも、その詳細な数値を打電した。
 関さんからクロンメリン彗星再発見の知らせを受けた、山崎正光氏は、30年来の愛機を納屋から運び出し、不自由な足を引きずるようにして、庭先に据えた。塗料の剥落した鏡筒は、あたかも、山崎氏の老齢を物語るかのように、古色蒼然としていた。

(写真)山崎正光氏と口径20cmの彗星捜索機(関つとむ氏撮影)

↑山崎正光氏と口径20cmの彗星捜索機(関つとむ氏撮影)

 山崎氏は、老齢にため衰弱した体を精神で支えるようにして、東の地平線の空を見つめていた。28年昔に比べれば、レンズは曇り、自己の視力も極度に衰えていた。東の地平線を、静かにしし座が昇ってくる。山崎氏の瞳に、かつて水沢で眺めたなつかしい星座が映る。山崎氏は、望遠鏡に目を当てた。しかし、そこには、28年昔のホーキ星の姿はなかった。山崎氏の視野は、徐々に北へ進んだ。しかし、エプシロン星のすぐそばに輝いている筈のクロンメリン彗星は、彼の視野に映らなかった。そこには、28年昔と何ら変わらないホーキ星のイメージがあった筈である。しかし、28年の星霜は、人間にとって、余りにも長すぎたのだ。
 しかし、山崎氏はなお執拗に星を追い続けた。この時、山崎氏の視野に一瞬暗い霧のような光体が映った。「あの星だ!」それは、長い間山崎氏の眼底に黒く焼き付いていた忘れられないホーキ星の幻影であった。
 関さんによって移動が確認されたクロンメリン彗星は、山本天文台に打電され、それを受けた山本博士がさらに東京天文台へ転電すると共に、国内の関係者に、同彗星の確認を発表した。東京天文台では、今回の発見位置が、先に発表された大英天文協会の位置予報と、かなりの差異があり、10度も北にずれていたので、とりあえず“コメット・セキ”として、各所に打電したのであった。
 ところが、この電報と入れ違いに、国際天文連合の回報が、航空便で舞い込んできました。それは、チェコスロバキアのスカルナーテ・プレソ天文台で発見された彗星で、その発見位置が関さんの観測に非常に近く、しかも関さんの発見よりも6日も早いのである。
関さんは、この知らせを山本博士から受けた時、呆然として、目がくらむ思いであった。もっぱら、この彗星の検出に専念し、昼夜寝食を忘れて精進していた関さんである。それだけに失望は大きなものであった。
 (関つとむ著『イケヤ・セキ彗星 未知の星を求めて』昭和41年5月 関記念出版会発行を参考にした。なお、この本は『新版 未知の星を求めて』として同著編集委員会によって2021年12月に増補・改訂されて新たに発行された。是非、一読をおすすめする。)

(写真)左:初版の『未知の星を求めて』(1966)、右:『新版・未知の星を求めて」』(2021)

↑左:初版の『未知の星を求めて』(1966)、右:『新版・未知の星を求めて」』(2021)

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