連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.2 1/4
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.4.7

はじめに

 今回、この「異色の天文学者・山崎正光」で皆様に紹介したいのは、実は山崎正光氏が大学ノートに主にローマ字で綴った、恐らく未発表の「天文日記 #2」である。しかしこれは、山崎氏が昭和11年(1936)6月19日の北海道皆既日食に、五藤光学研究所と朝日新聞社の共同観測隊の学術指導として遠征した時から始まるもので、残念ながらそれ以前の記述はない。そこで、それ以前のことについては、昭和32年(1957)12月、71歳の山崎正光氏が病床からすばる会の機関紙『宇宙』のために執筆した“My path in Astronomy”(私の天文学経路)を基に、今回からお話することにする。
 因みに、この「私の天文学経路」は、昭和47年に誠文堂新光社から発行された月刊天文ガイド別冊『彗星』に、また、昭和54年の天文ガイド編集部編『私の新彗星発見記』にその抜粋が掲載されたことを記しておく。
 本記事の掲載にあたり、貴重な資料の転載を快諾いただいた山崎正光氏のご遺族、および関係者の皆様に深く感謝申し上げます。なお、転載した資料の中には、一部、現代では不適切な表現が見られる部分もありますが、資料的な意義を考慮し、そのまま掲載させていただきました。ご了承いただきたい。

(写真)すばる会の機関紙『宇宙』の表紙(左)と扉(右)

↑すばる会の機関紙『宇宙』の表紙(左)と扉(右)

山崎正光氏を悼む  池田徹郎

 去る5月31日山崎正光氏が突然亡くなられました。今回山崎さん達の信仰によって結ばれた“宇宙”グループから山崎さんの追悼号が出ると聞きましたので、私も少しばかり思い出を書かせていただきたいと思います。
 山崎さんが水沢に来られたのは私より一年あまりおくれた大正12年の年の瀬もせまった12月末のことでした。長くアメリカで学問された人というので私共はハイカラで才気縦横の紳士かと想像していましたが、来られてみるとそれとは正反対に、自叙伝にも武田勝頼の子孫らしいと書いておられる、丁度其様な方でした。そして附合ってみると純真で善意に満ちたお人柄が分かり、段々に誰からも親しまれ尊敬されてきました。
 山崎さんのお仕事は先任の川崎技師と組んで視天頂儀を以って緯度の実地観測をすることでした。これは水沢が負わされた国際義務で当所の仕事の中心になるものです。山崎さんはそれを昭和17年春退職されるまで満17年以上最も忠実に実行されました。其他非番の夜は自分の楽しみとして15cmの屈折望遠鏡で全天の星野写真を撮り、其乾板は数百枚もたまった筈と思われます。昼間は大てい反射鏡磨きをして居られました。この二つの仕事はアメリカ時代から続けられたものです。
 山崎さんは、自分で製作された20cm反射赤道儀で、すい星探しもされ、1928年の秋の一夜10等のすい星を見付けアメリカの太平洋天文学会からドノホー賞牌を授与され当所でも祝賀会をされました。山崎さんは北海道の日食にも行かれ食の進行を活動写真に撮ることに成功しました。これらのお手柄話は自叙伝に詳しく書いてあります。このように山崎さんはごく地味な実地の観測を根気よく続けられましたが、これらの観測資料は年が経つと共に価値が増す性質のものです。
 山崎さんは、昭和17年春全所員から名残りを惜しまれながら東京に去られました。而し東京の暮らしはあまり快適ではなかったらしく、間もなく郷里へ帰られましたがそこでも戦中、戦後の混乱中人一倍の困難に遭われたように思われます。其困難も一家を挙げてよく切り抜けられ、近年は多くのお孫さん達もでき、よいおぢいさんになられたことが時折のおたよりや送っていただいたお写真にもうかがわれました。ところが、去る五月下旬に送っていただいた“宇宙”の山崎さんの自叙伝の追記に山崎さんが病気で居られるという記事を見て私は取り敢えずお見舞状を送りました。それは画箋紙の巻紙に東北産の果物などを画き添えたものでしたが、それに対して山崎さんから早速御返事をいただきました。恐らくこれが山崎さんの絶筆だろうと思われますので、ここにその全文をお目にかけましょう。

  “池田様には昨日は御親切なる御見舞にあづかり
  ましたことに恐縮にたえませぬ。水沢名物の果物
  の絵を見てよだれがおちるほどです。とてもなつ
  かしい思い出です。家内にも見せたらこれはとて
  もよい記念品だから額にして保存しなさいと言い
  ました。その通りです、ほんとに最上の記念です
  厚く御礼申上げます。病気という程のことではな
  いです。唯床ずれが肩の骨の所に出来たのが痛く
  て中々よくならなかったが、どうにか少しらくに
  なりました。御礼迄“

 以上の通りで日付は5月28日です。床ずれが中々よくならないということで相当長い御病気かと想像しましたが文章も、文字もはっきりしていた上に、病気という程のことはないのですとありましたので、まあよかったと一安心したその翌日に、御逝去の電報をいただいたのですから全く夢の様な気がしたのも当然のことでした。なお山崎さんと親しかった所員一同からも、ほん物の水沢名物のお菓子等を御送りしたのですが残念ながら間に合わず、御見舞が御霊前に変わってしまいました。  山崎さんの七十四年の御生涯をみますと、キリストの信仰に生き、好きな天文を職業とし、よい家庭に恵まれ、豊かな余技や趣味を楽しみ、誰からも敬愛されながら古希を過ぎるまで生きられた訳ですからうらやましいほどのよい御生涯であったと言えましょう。而し山崎さんにも一つの大きな御不幸がありました。それは長女政子さんを失われたことです。美しくて気立てのよい政子さんは昭和16年水沢女学校を卒業して、その年東京専門学校に入学されたのですが、入学の喜びも束の間、腸チフスにかかって急死されました。此時の山崎さんは見るも痛わしいほどの悲しみようでしたが、やがて“また会う日まで”という手記を書いて知人に配りあきらめのよすがとされました。  今は“政子よ約束通りまた会いに来たよ”と呼びかけながら互に手をとって安らかに眠りにつかれたことでしよう。

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