更新日 2022.4.15
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、おほぞらはみてのわざをしめす、この日このことばをかの日につたえ、この夜ちしきをかの夜におくる。」(詩篇19)
My path in Astronomy(私の天文学経路)などと言うことを書くと、何んだ山崎なんて言う天文学者の名など聞いたこともない。やはり天文をやるというからには、少々頭に来ているのではないかと思われる人もあるかも知れないが、日本では四、五十年前には、天文を研究するとなると相当の財産家で、東大を出るより他に道はなかった。
大学を出ても、大学に残って研究して教官となるか、東京天文台の技師に採用されて学者となるとか言うのであって、そう多数の学者が入用でもなかったので、外国出の者が頭を突込むような位置は全く思いもよらないことであった。そういう時代に在って自分の如き平凡なる者が、十八年も水沢緯度観測所技師として、務めることが出来たということが一つの奇蹟であるが故に、浅学をもかえりみず筆をとってみたわけである。日本では、自分には誰とも師弟の関係や、学ばつが有るので無いから何を言っても自由の立場にある。然し、基督の教えられし如く、汝人をさばく勿れ、恐らくは汝も亦さばかれん、と言われしことを心にとめて書くのであるが、馬は馬と呼び、決して馬を鹿とは言わないつもりである。
回顧すれば、72年前の1886年5月、高知県佐川町片田舎の五反百姓の次男として生まれ、兄と姉があった。系図によれば、武田勝頼公の子孫であると出ておる。不幸にして自分が4才の時、父は病没したが、母は至って健康で、隣に伯夫が大きい百姓をしていたので、其手伝をした。此おぢさんは頗る物の解った人で長男を商船学校え出して居ったが、よく内の面倒を見てくれたので、母子四人は大した不自由もなく暮らすことが出来た。
夏はとても暑いので、毎年八月になると庭に涼み台を作って、晴夜は九時か十時頃まで涼んだ。その時ねころんで居ると沢山の星がとんだことをおぼえている。天の河が白く南北に流れておるが、七夕星がどれであったか知らなかった。秋十一月になると東天に三ツ星(オリオン)が見えだす。母はいつも三ツ星が見え出したらもう麦をまかねばいかぬと言われたことを記憶しておる。
この頃は小学校は四年制で、教科書といっても国語と修身丈であって、理科のことなどについて聞いたこともなく、太陽や星のことについては全々知らない有様であった。之に比べると今日の小学二年生は、すでに相当の天文学者に属すると言える位に数えられておる。四年生では、自分が成績が良かったと見えて優等になり、沢山の賞品を頂き且先生に対する謝詞を自分が読んだ。高等小学校四年間は不幸続きであった。病気療養中の従兄弟が病没して二年目におぢさんも病没せられた。幸いに兄が師範学校を卒業し、佐川に転任になった。四年の卒業式にも自分が優等で謝詞を読み賞品も沢山いただいた。
不自由の中にも兄が自分を中学にやってくれることになり、当時有名な高知県立海南中学校と言う山内家の経営のもので、兵隊学校とまで呼ばれし軍国主義の学校に入学した。高知県出身の陸海軍将校の六、七割までは本校の出身者であった。それで生徒の三分の一は軍人志願であったと言える。然し自分はどうも此兵隊教育がいやであったが、英語が得意であったのと、アメリカ大学出身の英語の先生や、英人の先生などが居られたことから、中学四年になって渡米しようと決心した。
1905年に卒業したが、日露戦争も八月に平和となったので、渡米の手続きの後ようやくにして旅券が下附になった。当時、渡米案内という本など読んで大体アメリカの事情を知っていた。金は日本貨が倍になり、給料も高いから金もうけがたやすいと教えられていた。十一月末に親、兄弟、親戚の人々に送られ、初めて背広に靴 帽子と言う当時にあっては至ってハイカラな服装で、喜び勇んで家を出たものである。今日では、小学生ですら汽車や汽船に乗って県外に旅行するので、遠方に旅行するのも格別心さびしいことは無いが、当時は土佐には一本の鉄道が有るでも無く、汽船に乗るのも全く初めてであった。神戸から横浜行の三等にのった。
此時の三等と言えばお粗末なもので、座席は板であったと記憶して居る。若いのと、アメリカ行と言う希望にもえて居ったので、長途の汽車旅行にもさほどつかれたとは思わなかった。当時横浜駅と言うのは無く、平沼で下車し人力車に乗って横浜の移民宿についた。宿には多くのハワイ行移民が泊っていたが、自分は本国行きと言うので、宿では一人一室の特別待遇を受けた。二、三日で乗船手続も無事に終わり、いよいよアメリカ船コレアと言う一万屯の大汽船に乗り込み、ドラが鳴り汽笛がうなって船が動き出した時は、さすがに日本も之が見おさめで、いつ再び帰るものやら知れないと思うと、心さびしく感ぜざるを得なかった。ボーイさんの指図で三等室に下って見れば多数の移民さんがいた。其大部分はハワイ行で、本国行の人が七人居てその中に再渡米の方がいた。色々と世話をやいてくれたので、船中は少しもさびしく無く、又ハワイ行の高知県人も数人居ってよき話相手ともなった。
或る日のこと船中で不意にドラが鳴り、何だかさわがしくなったので、デッキに出て見ると、船員たち(主に支那人下級船員)がデッキを走り廻り、ボートをおろすやら水道の筒を引張るやらしておるのでびっくりした。聞けば舟火事の練習とのことでやっと安心した。船には初めてのことゝて実にきもをつぶした。其後日本へ往復したとき三回も日本船に乗ったが、此様な練習は一度も無かった。
妙に暑くなってきたと思うと、ハワイ島が見えホノルルに着いた。ハワイ行の人々は上陸するし、又本国行の人々が大勢乗り込んできて船はにぎわった。船のまわりを土人が沢山泳ぎまわり、白人たちが之に金を投げると口にくわえて水の中から出てくる。或は手に持って見せるので面白く、人々が一、二銭或は五銭十銭玉を投げて楽しんだ。船中へは商人がバナナやパイナップルなどを持ってくる。再渡米の方に教えられて少し買った。之等の果物は初めて見るもので、バナナは大変上品な味の有るものであることを知った。港からはよく町の有様はわからなかったが、日本人は日本服に下駄をはいた者も大勢いた。半日位して船は再び走り出て、いよいよサンフランシスコ行となった。横浜を出て十六日目であったと思う。ボーイさんが明朝サンフランシスコに着くから上陸の準備をなさいと言われ、一同大喜びで荷物といっても行李一個だけだ。ハワイから持って来た果物などすっかり平らげた。船のコック等は、ひそかに沢山の残った肉などを海に投げると言うことを聞いた。翌朝早くから晴着を着てデッキに上がって見ると、己に金門湾に入って船は停った。
↑サンフランシスコ湾のおびただしい埠頭
本コラム「異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.2」について『本記事の掲載にあたり転載した資料の中には、一部、現代では不適切な表現が見られる部分もありますが、資料的な意義を考慮し、そのまま掲載させていただきました。ご了承いただきたい。』との記事筆者注が本コラム1/4冒頭 はじめににて記されております。
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