更新日 2022.4.28
「異色の天文学者・山崎正光」のNo.2~No.7までは、昭和34年(1959)8月10日に発行された、すばる会の機関誌「宇宙」の故山崎正光氏追悼記念号によるものである。従って、普通の雑誌であれば巻頭言のところが、山崎氏と最も親交の深かった池田徹郎の追悼文で始まっている。この池田徹郎は、島根県の出身で、水沢の緯度観測所に1922年5月17日から1963年5月15日まで在籍した三代目の所長である。豊かな現実感覚により戦後の本格的な観測体勢を確立し、水沢データの高い信頼性を海外に改めて認識させた方であり、水沢市の名誉市民でもある。
ところで、追悼文の中に、長女のお名前が「政子」とあるが、正しくは「雅子」であるから訂正しておく。
「異色の天文学者・山崎正光」No.2には、「私の天文学経路」のうち≪1. 渡米の巻≫を掲載した。この巻は、山崎氏が誕生してから、19歳で渡米し、翌年地震に遭遇してサクラメント市に避難するまでの話である。
山崎正光氏は、明治19年(1886)5月15日に高知県高岡郡佐川町本三野乙2226で農家を営む、父 山崎寅吉と母 いぬの次男として生まれた。明治38年(1905)3月23日に山内家が経営する海南中学校を卒業すると、その年の11月20日に渡米する。ところで、当時、高知県の片田舎の5反百姓の19歳の若者が、そう簡単に渡米できたのだろうか。
天文好きなら誰でも知っている、誠文堂新光社を創業した小川菊松も、実は山崎正光氏より1年前の明治37年(1904)に渡米しようと考えていた。菊松は、茨城県東茨城郡川根村の小川菊太郎の次男として、明治21年(1888)3月25日に生まれた。ところが、菊松が7歳のとき父が亡くなり、家産も傾いたので、学業で身を立てるわけにも行かず、かといって一生をこの山村にくすぶって暮らそうとも思わなかった。
そこで、16歳の春、親友と上京し、彼の叔父の家に草鞋を解いた。そこで、報知新聞の広告を見て、日本橋の大洋堂書店に入社した。ところがその頃、郷里の友人たちの中に海員となって海外に行く者が多く、菊松もそれが羨ましくてたまらない。自分もアメリカに行って一旗揚げようと、海外渡航案内や二十世紀日英会話などを読みふけっていた。そして大洋堂に入った翌年の11月3日、意を決して暇をとり、横浜の花咲町にあった海員養成所に行って受験した。しかし、視力の問題で不合格になってしまった。こうなると、今更大洋堂には帰れない。そこで、得意先だった貸本屋で面白い新商売を見付けることになったのだという。もし、菊松がこのまま渡米していたら、その後の『子供の科学』も『天文ガイド』、『天文年鑑』も発行されなかったし、五藤光学の「1インチ望遠鏡」も月に百台、二百台と売れることもなく、今のような五藤光学研究所もなかったかも知れない。
↑小川菊松著『出版興亡五十年』誠文堂新光社 昭和28年
当時、どうして二十歳前の若者が渡米して一旗揚げようと思ったのだろうか。
アメリカは、それまでイギリスの植民地だったが、1776年に北米の13の植民地が独立することでアメリカ合衆国が生まれた。この独立と建国は移民によって成されたことから、その後も移民を無制限に受けいれる国となったのである。そして、1890年以降大規模な移民が東ヨーロッパや南ヨーロッパ、アジアで始まったのである。そこで、日本の若者もアメリカを目指したのではあるまいか。しかし、アメリカもその後人口の増加に伴い、この地域の移民を厳しく制限することを目的として、1924年に移民法(ジョンソン・リード法)が成立し、日本では排日移民法などと呼ばれ、日本人もアジアの移民として排除されたのである。
また、山崎氏が1906年の4月18日に遭遇したのは、マグニチュード8.3のサンフランシスコ地震で、国立天文台編の『理科年表』によれば、I=11で、火災が発生し死者700人(別資料では死者3千人)とある。I=11とあるのは、改良メルカリ震度階級に相当する最大深度で、1~12階級に分けられている。I=11というのは、11階級のことで、「震度階級表」によると、壊滅的で、丈夫な建造物が全壊し、橋が崩落するとある。
実際の、すばる会に機関誌『宇宙』の「My path in Astronomy(私の天文学経路)」の《1.渡米の巻》には挿絵はないが、各都市の位置関係が分かるように地図を挿入した。また、誠文堂新光社の創業者 小川菊松氏の話は、小川菊松著『出版興亡五十年』誠文堂新光社 昭和28年発行を参考にした。
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