更新日 2022.5.13
サクラメントには日本人が沢山住んで居り、日本人農業移民の本場と言える。友人秦氏はそこで靴職の徒弟をしていたことがあった。こゝでほんとに異郷で兄弟にあった如き喜びを感じた。
教会に下宿していた時、一白婦人の家にやとわれた。その家はRootといって主人はペンキ・ガラス会社の支店長であった。教会に下宿して此の家に通勤していたので、だんだんキリスト教のことを教えられた。或る日のこと教会の机上に内村鑑三氏の「聖書の研究」という雑誌があったので、それを読んでみると大変面白く感じたので、そこにあった旧号二、三号を読んだ。そして此の雑誌とその中にのっていた先生の著書も大分注文して聖書の研究を始めた。或る時研究誌に「神がアブラハムを野にいざない、汝星を数えうるかをみよといわる。然り一等星20、二等星50(?)・・・・肉眼で見る星は六千にすぎず、望遠鏡を以ってすれば其数幾千万なるを知らず。人はあくせくすることをやめアブラハムの如く野にいでて星を見よ・・・・。」という一文を読んだ。又“パウロの復活論”という一冊に、「天には日の栄あり月の栄あり星の栄あり此星と彼星とは其光彩を異にす・・・・・。」之を読んで何だか星のことを知りたくなった。其の時或る雑誌に「一弗送れ。太陽の黒点の良く見える望遠鏡を送る。」とあったので、それを一本買って太陽をみると、成る程黒点がいくつかみえた。しかし月など見てもあまりよく見えなかった。12弗送れば大きさ二吋(5cm)で50倍と100倍になる天体地上両用の望遠鏡を送るとあったので、今度はそれを買った。此望遠鏡は此の種のものでは実に立派なもので、さっそく太陽をみた所、大小無数の黒点が鮮明に見え、月を見れば表面が実にあざやかであった。
金星は三日月の如く、土星には環まで見えてほんとにおどろかされた。そのうちにRoot氏の家へ住み込みとなった。其の家に初等天文学の本があったので、之を読んで見て大変面白く大分天文の知識を得た。こゝで一つの不思議がおこった或る日の新聞を夫人が読んでの話に、「リック天文台のエイケン博士(Dr. R. G Aitken)が、サンフランシスコで天文の講演をせられたというニュースがでておる。此のA博士は自分のハイスクールの友人であった。永いこと其の消息を知らなかった。さっそくあんたのことをいってやる。」と言われて数日すると、夫人は博士から手紙を受取り、そのヤマという日本人が何でもききたいことがあれば教えてやるということであった。
そこで自分の学問の程度を述べ、どういう本を読めばよいかとたづねた処、色々教えて下さった。
基礎天文学としては
Young : Manual of Astronomy
Young : General Astronomy
星図はUpton : Star Atlas
などがよい。此のG.A. は大学の教科書ともなっていて、少し程度はたかいと教えて下さった。そこでG.A.と星図とを購入した。G.A.という本は分厚くとても立派な本であったので、之を読み始めて急に天文学者になったような気がした。自分の部屋の窓から午后太陽が見えたので黒点の写生をした。Root氏の家では星が見えなかった。凡てサクラ市は町一面に大きいニレの木が街路樹になっていて星など見えない。それでも近くに美しい州庁の広場があったけれど、夜など外出すると小供などにいたずらせらるる恐れがあるので出なかった。1905年六月の或る日部分日食があった。始めて望遠鏡で太陽のかけるのを見た。此の年Root氏がロサンゼルス支店長に転任になったので、自分もついて行った。サクラ市に在留当時の友人は、前記以外に神原氏の弟で自分と同級生と池上氏と高知市の由比氏とであった。
或る時、夫人が雑誌でPopular Astronomyという天文雑誌のあることを知り、一冊自分に見本を取ってくれた。一読して気に入ったので購読することになった此の雑誌の1910年一月号であったと思うが、Leo Holcombという人が、反射望遠鏡を自作し天体を見ておるという通信が出ていた。有名なハレーすい星も既に発見になり、此の年の五月十八日に太陽面を通るということで、新聞雑誌をにぎわしていた折柄であったので、自分も是非自作したいと思い、此の人に手紙を出してくわしく製作法を教えてもらうことにした。氏は一冊の英国からの本とイングリッシュ・メカニックと言う雑誌を送ってくれたので、すぐそれによって大きさ20cmのガラス二枚と、之に要する材料など手に入れ三月から作り始めた。
「面白いことに後日アメリカで有名になったアマチュア天文家で五メートル望遠鏡の設計者の一員であったPorter氏も此のHolcomb氏の通信から製作法を知って、反射鏡製作並に愛好者になったということを数年前のS & Tに発表して居られた。
アメリカではそれよりも二十年も前に、有名な光学会社の所有者ブラシャ氏は、反射望遠鏡の製作者であったけれども、アマチュアの自作の草分けをしたのは、此のホルカム氏であったと思う。其の後1919年の天文月報に於て、始めてガラス反射鏡の製法を紹介したのは自分であることは一般に知られておる」
此の1910年という年は天界の最もいそがしい年であって、一月には不意に夕方大きなすい星が現われ、尾のはじめの方は巾も小さかったが、先の方は広くひろがり且つ北へ曲がって見えた黄道光の為、はっきりとは見えなかったが、自分は始めてすい星というものを見た。
又三月頃であったか日中に星が見えた。人々は之はハレーすい星だと言ってめずらしがったが、自分は之が金星であると言っても、いやハレーだという白人もあっておかしかった。ハレーの頭にはシアンガスがあるから、地球が尾でつゝまれると人が死ぬかもしれないなどとうわさされて南部の黒人たちは世の終りだとおそれさわいだらしかった。自分の反射鏡もしごとのひまを見て、一日二時間位いづつすったが、筒を木で作り部分品を取りつけるなど中々うまく行かず、そのうちハレーはえんりょなく五月十八日に太陽面通過となる。ロス市では此の頃毎朝ハイフォグ(高霧)という霧の為に見えず残念であったが、五月廿日頃夕方の天をかざることになった。此の時でも尾は50度に達し美しい光景であった。5センチの望遠鏡を以って星の位置の写生をした。日増しに尾は短くなり七月迄見えた。反射鏡もどうやら出来て、月面を見て其の美しいのにおどろいた。それでも月が二重にみえたので変だと思い、ホルカム氏にたづねると鏡面が悪いとのことであった。
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