連載 星夜の逸品 -児玉光義-

ドームなび GOTO投映支援サイト

異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.3 2/4
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.5.20

 自分より一年遅れて渡米した同郷の友人北川氏が、サンフランシスコ市の南30哩位の所のRed woodで花屋をやるが、一人500弗の出資で三人でやらないかとの相談を受けた。自分も何かやってみたいと考えていた折柄であったので、その口にのりルート氏の家をやめ、八月の始めにレドウードに行く。そこには日本人花屋が三軒あった。木材を買い自分達で小屋を建て、水揚げポンプをすえ土地をうるおして畑をかいこんし始めた。そうする内にルート夫人からLick天文台のエイケン先生の所へボーイとしてこないかとの話であるとの手紙がきた。リック天文台といえば、本や雑誌でみてあこがれの地で、一度は見物したいと思っていたし、今自分のおる所より近い。金もうけの道か学問か、学問でも天文ときては生活の保証はつかない。ままよ運命はバクチである。天文とゆけと決心し残念ながら友とわかれた。
 サンノゼ市から東を見ると、海抜千四百米のハミルトン山 Mt.Hamiltonがある。此の頂上に白色の大きいドーム2個にはさまれた建物が見える。偉観である。
 翌朝乗合自動車で曲折した山道二五哩を走り正午頃天文台の玄関についた。Aitken先生と青年、子供さんと二人に迎えられて百米位東の官舎につき、エイケン夫人にも初対面のあとで色々と仕事について話された。先生はじめ皆な大変よい方のようであったので気をよくした。此の日は土曜日で参観日であったので食後青年につれられ天文台の中を見せてもらった。先づ90センチの大望遠鏡のドームに入った時には、その見事な大きい望遠鏡にたまげた。ろうかにはたくさんの星や星雲、月、土星などのスライドあり、気象用の機械、大きい標準時計も数個あった。凡てのものが自分には初見参でめずらしいものばかりであった。夕方先生が日没を見せてやると言われ、ベランダに出てみると太陽が地平線下にしづまんとする時、太陽が大きく見えあたかも木星の図を見る如く、横にしまもようが見えて実に美しく初めて木星状の太陽を見た。此の山ではお客さんに日没の太陽を見せるのがもてなしの一つとなっておるようである。日本でどこか此の様な現象の見える山があるだろうか。年々富士山へ何万人も登るが、木星状の美しい太陽を見たと言う話は未だきかない。夜天文台へ行くと大望遠鏡で土星を見せていた。本にも出ておる有名なキーラー前天文台長の美しい土星図は、此の写生図かと思って感心した。30cmでは月を見せていたが、月は自分の反射鏡で見ておるのでおどろかなかった。天文台には別にクロスレー90cm反射と15cm写真機もある。又A先生の官舎の近くに15cm用のドームもあった。自分の仕事としては、一週一回づつA先生の所とカーチス博士の所で洗たくをし、あとは先生の家で食事の時に手伝えばよい。その残りの時間は自由で自分は毎日図書室で本を読ましてもらった。多くの雑誌と本があって面白かった。
 カーチス博士は反射鏡係で、主として星雲やすい星の写真をとっておられ、東京天文台の早乙女氏からハレーの写真を送ってもらったと言っていた。此の先生が、自分が反射鏡を作ったことを知り、色々気をつけてくれ或る夜90cmで写真をとることを教えてくれた。又或る日90cm鏡に銀びきするから見学にこいと言われたのでそれを見学した。其の方法はブラシャ方法であったが、やり方が甚だ簡単で、之なら大きい鏡に銀びきするのは何の困難も無いことを知った。A先生は解析幾何と微積分学の本を貸して下さって、不明の点は問えと言われたが、大部分独学した。又先生は小さい望遠鏡では変光星観測が一番よいと言われ、その観測法を教えてくれたので、δセフェイ 琴座εの眼視観測を始めた。又Hagen星図があるからといって教えてくれたので、適当な変光星の図を写した。「1909-10年頃東京から一戸直藏と言う方が、ヤーキス天文台へ留学していて、視線速度と変光星の観測をなし、P.A誌に発表しているのを見たが、此の一戸氏が日本人最初の変光星観測者であろう。自分は其の二番目で1913年から発表しておる。」
 秋のある日曜日に皆なで山を東に五百米位行った所へ松笠を集めに行く。米松の松笠はとても大きく直けい20cm長さ30cmもある。之を集めて冬の炉の燃料にする為である。めずらしいことに松の幹には無数にあながある。之はキツツキのあけたもので、彼等の食糧倉であるとのことであった。青年が大きな石を上げると下に大きな鈴まむしがいた。恐ろしい毒蛇である。此のあたりは大きい森林地帯であって、何だか恐ろしい所のように見えた。此の山は馬の背の如く東西には長いが両側は深い谷で、そこからポンプで用水タンクに揚げていた。東のタンクのある峰をケプラーといったと思うが、そこから東を見ると遠く有名なヨセミテ国立公園のドーム山が見えるのであった。天文台から西のながめは雄大で、地平線下に半島の山々が低く見え、其の北の尖端にサンフランシスコが見える。夜は其の町の火が星図のように見えた。空気の状態のよいこと、シーイングは毎夜満点で夜は星がほんとに近く、手にとるが如くに感ぜられた。四月から十一月迄は雨は一てきもふらず、快晴つづきと言ってもよい。それでいて、春から夏はハイフォグが此の山のすぐ下までくる。決して天文台迄は達せずそれで上から見ると、丁度海を見る如く美しかった。冬は相当寒かったが一月から二月にかけて雨と雪が降った。雪は60cmも積もった日があったが、長くはつづかず三月迄には雨の為に消えた。天文台では毎土曜日が公開日で、大望遠鏡でめずらしい天体、主として土星、月、オリオン星雲、ハアキュリス星団、琴座 及び環状星雲などを見せた。或る夜カ博士が琴座の環状星雲を見せていたので、自分は此の星雲の中央に星が見えますかとたずねた処、博士はよく見てからやっと見えると言われたので、自分も見たが成る程やっと見た。之は眼視十五等星であるから90cmでは十五等が大体極限らしいと知った。天文台の告知板を見ると、90cmの受持日割が出ている。A先生は一週一回又は二回で、先生は二重星の発見と観測では当代第一人者で、主に30cm屈折を使用せられたが、すい星の出た時は眼視ですぐに観測して大学に通知する。
 大学天文台ではそれによって直ぐ軌道の計算をした。先生も計算は達者で、いくつも計算せられた。奥様が先生にすゝめて、キャンブル台長さんに相談して15cmをすえつけてYamaに使用さした方がよいと言われたそうな。それが実現することになり、15cmドームに手入れをし15cm屈折望遠鏡を運んで、先生の指導で之をすえつけ半月位後に此の立派な望遠鏡の使用を許して下さったときには、何とも言えぬ感激であった。
 此の望遠鏡は、日本の望遠鏡屋の広告にある如き簡単なものでなく、大きいファイラーポジション測微尺付の天文台用のものであった。之を用いて色々と星を見、又英国から小型の分光器を二個買入れてアイピースに取り付け星のスペクトルも見た。又すい星をさぐることも始めた。或る夜此のドームにいた時、90cmの大望遠鏡が東向きになり低い高度にあったので、初めてその大きいレンズを見た時には何とも言えぬ喜びであった。天文台でこのドームに入っても、いつも高く上をさしていて小さく見えたのであった。
 自分は今当時のノートを見失ったので、日は正確ではないが五月頃であった。ウイルソン山で天文の会があり東部の学者が沢山出席せられた。其の中の人々が天文台へ来られた。A先生の家へはシュレシンジャー、バーナード、フアクス、キング氏等が見えて昼食をせられた。自分が其の給仕をする。其の時先生が紹介して下さったので甚だはづかしかったが、シュレシンジャー氏は日本の木村を知っておるかとたずねられ、新聞で其の名だけは知って居ると答えた。バーナード先生は、二年間東京の一戸氏がヤーキス天文台に居った。あなたもいつかヤーキスへ御出でなさいと言われたことなどで、アメリカの先生方の平民的な態度に頭がさがった。此の頃カールトン大学で発行して居るP.A雑誌の主任Dr. H. C. Wilson氏が客員で天文台におられたので、A先生の家で日曜日に聖書研究会があって、此のW先生が聖書の講義をして下さった。先生の大学に日本人学生が一人おると言われた。自分も何だか行きたいような気がした。或る土曜日の朝自分が図書室にいったら、急に家がゆれ棚から本が落ち出して相当な地震があった。然し幸いにして何の被害もなくてよかった。
 或る朝奥様が昨夜マウンテンライオンが鳴いたと言われて自分は実におどろいた。此のライオンは加州特産のもうじゅうである。A先生は天文台へ来られた頃
 サンノゼから自転車で帰る途中夜になった時、天文台の下の方で熊に出会い命からがら逃げ帰ったことがあったと言う話をきいていたので、此のライオンのことを聞いて夜外出することがおそろしくなった。六月に台長キャンブル博士が欧州へ旅行せらるるので、出発の日は山の人一同が盛大な見送りをなした。七月にカーチス博士の家にボーイの必要が無くなったというので、自分もA先生の家に滞在するのが気の毒になったから、厚く御礼を述べて山を去った。之に就て、A Year on Mt. Hamilton と言う一文をP.A誌に出して感謝の意を表したつもりである。

< 1.にもどる 3.にすすむ >

このページのトップへ