連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.3 3/4
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.5.27

≪解説≫

 「異色の天文学者・山崎正光」No.3 には、My path in Astronomy(私の天文経路)の《2. 天文入門の巻》を掲載した。これは、山崎氏がサンフランシスコ地震のあった1906年に、ホテルで働いていた日本人の仲間と一緒に避難してサクラメント市に着いた時から、エイトケン博士のボーイを辞してリック天文台を去るまでの話である。
 サクラメント市の教会に下宿していた時、ペンキ・ガラス会社の支店長をしているルート(Root)氏の婦人に雇われ、そこで、内村鑑三の『聖書の研究』を見つけて読み、星のことを知りたくなる。そこで、雑誌の広告で口径2インチ(5cm)の望遠鏡を購入、太陽の黒点、月の表面、金星などを見、土星の環に驚かされる。その後、ルート氏の家に住み込みとなるが、その婦人は、何とエイトケン博士のハイスクール時代の友人だった。そこで、どんな本を読めば良いか聞いてもらった。そして、ヤング著の『一般天文学』と星図を購入した。
 ところで、山崎氏がエイケンと呼んでいるのは、日本ではエイトケンと呼ばれているRobert Grant Aitken(1864-1951)博士のことである。リック天文台の台長を務めた方で、W.J.フッセイと共に二重星の系統的研究を行い、1932年に二重星の標準的なカタログNew General Catalogue of Double Stars within 120°of the North Poleを刊行した。
 また、そのすぐ後に、“1905年六月の或る日部分日食があった。始めて望遠鏡で太陽のかけるのを見た。”とあるが、前回の「異色の天文学者・山崎正光」No.2で述べた通り、山崎氏が県立海南中学校を卒業したのが1905年の3月23日であり、アメリカに渡航したのが同年の11月20日である。また、サンフランシスコで大地震があったのは、国立天文台編の『理科年表』によれば、1906年4月18日である。従って、1905年6月では年月が合わない。
 そこで、6月に部分日食のあった年をオッポルツェルの食宝典(Oppolzer: Canon der Finsternisse)で調べてみた。まず、1905年の日食であるが、
      1905年03月06日・・・金環日食
      1905年08月30日・・・皆既日食
上記の2回だけで、どちらも6月ではない。そこで、その後の方を見ると、
      1908年06月28日・・金環日食
というのがあった。太平洋から始まり、メキシコを通り、フロリダを通って大西洋に抜け、アフリカのガーナのあたりで終わる金環日食である。

(写真)オッポルツェルの食宝典(1905年付近)

↑オッポルツェルの食宝典(1905年付近)

 この日食であれば、時期も6月で食の中心線がメキシコを通り、カリフォルニアからは部分食に見える。従って、1905年ではなく1908年のことと思う。

(写真)オッポルツェルの食宝典(Chart 149)

↑オッポルツェルの食宝典(Chart 149)

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