連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.3 4/4
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.6.3

 その後、山崎氏は、Popular Astronomyという天文雑誌に掲載されたホルカム(Leo Holcom)の反射望遠鏡の自作記事を見て、自分も反射鏡を自作するようになる。ところが、アマチュア天文家で5メートル望遠鏡の設計者の一員だったPorter氏も、ホルカムの通信で製作法を知って反射鏡製作の愛好者になったとある。
 ここで、Porter氏というのは、ラッセル・W・ポーター(Russell W. Porter)のことである。1928年当時、バーモント州のスプリングフィールドに素晴らしいヤンキー式の器用な男が働いていた。その男は、典型的な寡黙なニュー・イングランド人で、マサチューセッツ工科大学の建築科の卒業生だ。若い頃、氷の絵を描きたいとペリーの北極探検に加わり、北氷洋付近を10年ばかり放浪した。彼は、クック博士の虚構のマッキンリー山頂登攀に何も知らずに参加し、その後この有名な極地探検家と一緒にグリーンランドで難船の厄にあった。最後に彼はファイアラと共にフランツ・ジョセフ・ランドに2年間島流しの憂目を見た。その時、彼は今度生き還ったら余生は赤道で送るのだと誓ったそうである。
 その後、彼はガラスの触覚が好きなので、望遠鏡の製作を始めた。ハートネスの援助を求め、廃車になった自動車をもらい、それを改造して望遠鏡を作ることに成功した。このことがきっかけとなって、雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」のアルバート・インガルスに知られ、アメリカの望遠鏡狂を組織化する運動を指導することを引き受けることになった。そして、彼は合衆国内の天文家の最初の天文台「ステラフェーン」を設計し建設した。
 ポーターは、ヘールの200インチ(5m)反射望遠鏡の計画には、最初から関心を持ち、その内容はよく知っていた。しかし、この計画に関係した仕事に従事しようなどとは夢にも考えていなかった。それは、素人の立ち入るべき仕事ではないからである。ところが、インガルスは、素人天文家の守り神ともいうべきポーターの宣伝に努め、ニューヨークで200インチ望遠鏡を計画したジョージ・エラリー・ヘール博士とポーターとを会見させたのである。
 1928年に、ヘールが200インチ反射望遠鏡計画の人的組織を作り上げている時、ポーターの変通自在の性格に強く印象づけられていたので、「この男は我々が今必要とする設計者となり得るかも知れない。兎に角この男は、我々を鼓舞し元気づけるために必要な人物だ。もう一度尋ねることにしようじゃなうか。」と言って、アンダーソンとピースにポーターを尋ねるように指示したのだった。こうしてポーターは、200インチ反射望遠鏡計画に、設計者として携わることになったのである。

(写真)200吋望遠鏡の北西からの眺め(ポーター画)

↑200吋望遠鏡の北西からの眺め(ポーター画)

(写真)200吋望遠鏡の赤経駆動部と計算機(ポーター画)

↑200吋望遠鏡の赤経駆動部と計算機(ポーター画)

 また、エイトケン博士が台長を務めたリック天文台は、世界で初めて山頂に作られた天文台である。カリフォルニアの富豪ジェームス・リックの遺産によって、36インチ(91cm)の屈折望遠鏡を主体とし、1888年にサンフランシスコ州サンノゼの東300kmのディアブロ山脈の中のハミルトン山頂に作られた。この望遠鏡は、当時世界一の屈折望遠鏡だったが、今はヤーキス天文台の100cm望遠鏡についで世界第二位である。
 創立以来、バーナム、バーナード、キャンベルなどの学者によって二重星や恒星の視線速度、星雲などの研究に重要な貢献をした。

(写真)リック天文台の36インチ(91cm)屈折望遠鏡

↑リック天文台の36インチ(91cm)屈折望遠鏡

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