連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.4 1/5
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.6.10

≪3. 大学の巻≫

 折角金のうなるアメリカ迄来て、よりによって金とは最も縁のうすい、天文をやるなんて変人だと笑われもした。然し人生は自分の意志のみで動くものでもなく、別の力によって導かれるもののようである。サンノゼ市にPacific Collegeと言う小さい大学がある。此大学を二年位やって、それを足台として一流の大学へ転校する人がある。
 自分も山を下りて其の方法で学校生活をすればよかったであろうが、レドウドの北川花屋へ貸した五百弗の大金がコゲツキとなったので、自分は天文をやってもそれで飯が食えることは、毛頭考えることができなかった為に、やはり金もうけに走らねばならなかった。そこで又、ロスアンゼルスのルート氏の家へ行った。ロス市は冬は暖く、北に高い山脈があり、其下にはパサデナという町があり、東部から避寒にくる。こゝにワニ園とダチョウ園があり、ウイルソン山には有名な太陽天文台がある。又ロス市は石油の産地で、西北に無数の油田ヤグラが立ち並んでおる。海岸は海水浴場で、有名な映画町ハリウドも近くにある。又ミカンの産地でもある。日本人に対する人気もよく、他で見られない日本人の屋台店があって、夜は“うどん”を売っていた。二回目のロス市滞在は一ヶ年半で1912年の冬、サンフランシスコに移り、サクラメント川の下流のデルタ地で池上氏が友人と共同で百姓をやっていたので、そこで一ヶ月手伝い、レトウドの北川氏に面会する。其時、北川氏は近く自分で花屋をやる、其資金を日本からとるとの話であったので、其うちの300弗を自分に払ってくれるなら働いてやると言うことで話がまとまりそこに居ることになった。約束の金も着いたので、300弗を以ってMogeyと言う光学会社から10cm屈折赤道儀を買った。それには赤けい赤緯環と自分の特別の注文した時計仕掛がついていて、頗る立派なものであった。之を花屋のすみにすえつけた。之こそ自分にとって最大のほこりであり、長い間の慰安となった。
 此頃ハーバード大学天文台長ピカーリング博士Dr.C. Pikeringの世話で、アメリカ変光星観測者協会A.A.V.S.O.というものが出来て、長周期変光星観測をやっていたので、自分も其の会員となり観測を始めた。14年のある日であった。自分が働いていた時、ひょっこり白人の紳士が自分をおとづれていた。見れば先年エイケン先生の所で御目にかゝったバーナード博士ではないか。こちらの方へ旅行してきたので一寸よったとのこと。此の片田舎へ取るに足らぬ自分の如きアマチュアを、たづねてはげまして下さった御厚意に対しては、感謝の言葉も出ず、ただもううれしく息もつまる心地がした。考えても見なさいヤーキス天文台のバーナード博士と言えば、世界的に有名な天文学者で、リック天文台初期の天文技師で、木星の第五衛星の発見で有名となり、幾多のすい星の発見且つ写真人像玉を以って星野写真を初めた人である。ヤーキス天文台が出来るとまねかれてそこの1m望遠鏡の観測等、天文界で誰知らぬ者もない方である。之にくらべて日本の大学教授などは、尊大にかまえて近づき難きをもってエラシとして居たのとは、雲泥の差ではないか。
 さて、1914年の八月、突然として欧州に世界大戦が起る。超えて1915年にはパナマ運河の開通の祝いにサンフランシスコで万国大博覧会があった。此の年に自分も花を作って売ったが、自分は元元商売はきらいで金にはならず、1916年にサン市に出た。こゝに日本人ドクターで橋本という方がいた。天文ファンであったので知人となり、自分が30cm反射鏡をみがき、ドクターが筒を作り、二人で赤道儀のマウンチングを作って、屋上にすえ付け月や木星土星を見た。土星などはとてもよく見えた。
 こゝにドクターの友人で、カリホルニア大学日本科の先生に、天文出身の久野Kunoと言わるる方がいた。自分も度々御目にかゝった。此の年の暮になってドクター夫人が、“山崎さん、あなたも大学へ入学なさってはどうですか。久野先生に話してあげますから是非入学なさい。”としきりにすゝめてくれた。自分は天文では食えないからだめですと言いつづけていたが、夫人の言われるには、大学を出て日本へ帰れば、中学校の英語の先生が出来るではありませんか、そして傍ら天文をやれば生活に困ることはないと思いますと言われた。此の一言で初めて自分も目がさめた。成程そうだ。よしそれでは大学へ入学するから話をして下さいと申し込むと、久野先生が大丈夫引受けますと言われ、一月に入学した。自分としてはいさゝか大胆であった。アメリカの学校は一度も見たことがなく、先生の講義がわかるかどうか実際不安であったが、入学してみると案外やって行けそうであった。渡米して十一年目にやっと此のドクター夫人に見出され、泥沼からすくいだして下さったことに対して深く感謝して居る。
 当時此の大学は二期制で、一学期は八月中旬からクリスマス迄、二学期は一月中旬から五月上旬まで、之が一学年である。此の初めの年の学生をフレシマンと呼ぶ。六七の二ヶ月に夏季大学があった。大学は高校卒業生以上で、誰でも年令に無関係に、選考により入学できたようであった。州立大学であるが故に、授業料は不要で唯実験のある科目は、実験費だけだす。吾々にとっては実に有難い恩恵であった。
 科目はすべて点数制であって、科によっては多少差はあるが一学期に取るべき点数は十二点位であった。自分の希望する科目を選べばよいのであるが、時間の都合でなかなかうまく時間割が出来ないので、学期始めの三、四日は時間割を定めるのに苦労する。丁度十二点になるようにしておいては、若し中に不合格が出た時、点数不足の故に落第となり、次の学期は休学となる。入学の際に自分の専門の学科を選定しておかなければならぬ。そして、その専門の主流の学科を四年間に修得する。時間と点数の都合で、主流に関係の深い科目をとるのは自由である。大人数の科目では、学生はABC順に席が定まっていて、助手が出席をとる。出席率も点数にはいるさぼることは出来ない。二、三十人づゝ組となり、セクション集があるので、其の時質問やクイズを助手の人がする。八月に始まる一学期では、数学や語学など基礎学は一週三時間であるが、二学期は之が六時間でダブルコースとなりとてもいそがしい。之は一年の分を半年で仕上げる為らしい。そのかわり五月には、九月生と同じく二年生ソフモアとなる。

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