更新日 2022.6.17
大学所在地バークレー市は、サン市の対岸オークランド市の北につづいて、後方に小高い山があり、学校も住宅も多くは此の山の斜面にあり、海岸まで四キロある。自分たち大学生は、どうして生活していたか?当時日本人学生は三十人位あって、学生クラブに十人寄宿し、其の他の人は下宿、自宅又は白人の家庭から通学していた。自分は下宿していた。白人学生寮、クラブ、自宅という具合であった。白人でも寮やクラブでアルバイトしていたものもあったようだ。
五月上旬に第二学期も無事に終わった。之から三ヶ月の夏期休暇に入る。日本人学生にとっては最大のアルバイトの時節である。よく働く人は、二百弗以上もかせいで一ヶ年の学資が出来る。自分も池上氏が農園で金をもうけてから、スタクトン市に靴店を出していたので、そこへ行き一ヶ月手伝ってから夏季講習に出ることにした。次の学期の下準備をする為であった。池上氏は此の時、自分に月々学資の補助をしてやるから勉強をせよと言われそれに力を得て帰った。夏といっても、この地方は五月頃の天候で、とても気持がよい。四人程クラブに宿つて講習に出た。まことに楽しいフンイキの中に終って、八月中旬又新学期が始まる。自分もはやソフマー二年生である。農園に出ていた学生が日やけして、ポケットをふくらまし喜び勇んで帰って来た。多くの新入生でクラブもごったがえす。部屋が足りないので之が大問題となり、早く大きい家を見付けることに決す。
大戦もいよいよ深刻となり、アメリカも遂に参戦した。学校には軍隊教練が始まり、カーキ服が目立つようになる。それでも学校の方は大した変化もなく学問をした。所が二学期になると、学校に兵営が建ち、アメリカ学生は凡て軍服で入隊して学問はつづけた。其の中に教官などどしどし軍に引きぬかれた。此の年は世界的にスペイン風邪が大流行で、学生は凡てマスクをかけねばならなかった。クラブも此の時には大きい家に移り二十八人位寄宿した。
五月には卒業式も行う。所が次の八月の新学期は大変である。学校はすっかり戦時体制となり成る可く早く卒業生を送り出さねばならぬとあって、機構に大変化が起った。学生達も続々出征、クラブからも二人出征した。聞くところによれば、アメリカは二百万の大軍を仏国に上陸させ、いざ大反撃というところで十一月十二日に独軍遂に手をあげて、さしもの世界大戦も終をつげた。
サン市の橋本ドクターが長いアメリカ生活に終をつけて日本に帰られた。そうこうするうち、自分に一大問題が持ち上がった。池上氏の父親が他界せられたので、氏は帰国して家の整理をしなければならないので、甚だ気の毒だが一月から五月まで店番をしてもらいたいとのこと。自分も折角こゝまで来たので、中止するのはつらかったが、恩義のある友のことと其の意に従い、五月末まで店を手伝い、五月池上氏が再渡米したので、自分も次の学期の始まるまで三ヶ月の旅で日本に帰る。スタクトンからサクラメントに行き、そこでシアトル行の急行に乗る。カ州とオレゴン州の境にある5.6キロのシヤスタ山などは、雄大なながめであった。オレゴン州からワシントン州に至ると、おどろくべき森林地帯で、松杉の大木の山つづきで見事なものであった。二昼夜の朝シアトルにつく。友人二人迎えられた。二日の後大阪商船に乗る。ビクトリア港につくと、其の町の北方に大きいドームの天文台が見えた。こゝには百八十センチ反射鏡で天体物理の研究をしておる。此の航路でアリューシャン列島が氷山の如くに浮いているのが見え、其の中の一つから煙が出ていた。アリューシャンが見える程北を通る船はあまりないとのこと。横浜につきすぐ東京に出て、一日東京天文台を訪問し、早乙女教授にお目にかゝったのみ。神戸から例の如く船で高知に着く。兄が迎えてくれた。涙の対面である。佐川には汽車がない。それでも乗合自動車があった。佐川には汽車のつく準備ができつゝあった。母も姉も大変よろこんでくれた。隣のおばの所では従兄弟が自分より一年遅れて渡米して、モンタナ州に働いていたので面会出来ず、帰って土産話がなく気の毒であった。或る日高等小学の生徒に5cm望遠鏡で太陽黒点を見せてやった。二ヶ月位は夢の中に過ぎ帰る用意をなす。奈良に知人がいたので奈良見物をなして横浜に出て七月末出港のシアトル行汽船に乗り、再び前の道をたどって八月十五日バークレーに着く。十八日が入学受付であった。自分は月こそ足らないが、学年で言えば三年生Juniorであってオトナの組みで、クラブでも少々はばがきけると言うわけである。大学の建物としては立派な図書館と観光的には時計塔である。此の塔はイタリアのものを真似たものとのことで、毎日チャイムが朝八時と正午に聞こえる。又ギリシャ野外劇場もめずらしい。色々の集会がこゝで行われる。最もユーモアたっぷりの催物は、毎年の秋に行われるFreshman Fireである。其の日の為にフレシマンは、町の店で古箱をもらって集めて劇場の中央に積む。其の催日に夕方之に火を付ける。するとソフの連中が之を取りまいて、More Wood, More Woodとさけびつゝ盛んに火をたかしめる。暑いのもがまんして、ソフ生はオーバーなど着込んで、寒いふりして火に近づいて、モアーウドをさけぶ所などとてもこっけいである。
戦前は日本の学者連中は、洋行又は留学と言えば必ずドイツへ出掛け。アメリカは素通りした。此の様な人々をアメションと呼んだ。つまりアメリカは単に小便するだけと言う意味であった。所が戦後数年間アメリカへ来るより外に方法がないので、此のアメションが大分あった中で、自分が最も不愉快に思ったことが二つある。一つは理化学研究所員で出丸と言う人が、クラブに来て話をしてくれた。所が其の人は盛んにアメリカの悪口を言い、アメドクがどうのとクラブにも医学生のいるのを前にして悪口をいったこと。他の一つは、日本では上杉法学博士と言えば誰知らぬ者もない。エライ学者とせられていたが、一日クラブを訪問したらしい。正午自分が学校から帰って机上に此の人の英文小冊子が、十ほどおいてあったのを見た。自分が丁度其の頃、会長代理であったので其の本を読んで見ると天皇神聖論の如きつまらないことを書いてあって、クラブにも二世の学生もいたし、之を見せるのをはばかり、誰にも知らすことなく之を葬り去ったことであった。日本の天皇中心の軍国主義をきらっているアメリカで、此様な宣伝は害あって益のないことで、まことに不愉快に思った。
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