更新日 2022.6.24
1920年の春であったと思って居るが、京都大学の新城博士がアメリカ旅行をなさった時、サンフランシスコに二、三日滞在された。其の時丁度クラブの仕事として、自分がスライド入天文講演をサン市で開いて新城博士を御招待したのが縁となり、後日新城先生に御世話になるようになった。大学では四年生をseniorと呼ぶ。四ヶ年の生活も1921年五月で芽出度く終りをつげた。日本では学校を出ることを卒業と言うが、アメリカは之をCommencementと言う。始めと言う意味になる。つまり人生の始めである。
↑卒業式で角帽とガウンを着けた山崎正光氏
卒業式には九時迄に各学部ごとに各人ABCの順に整列し、ギリシャ劇場へと進む。卒業生は全部で二千人もあったと言うが、皆一様に角帽とガウンをつける。劇場のステージには教授も凡て其の日の学位による博士ガウンを着けておる。学生は順に総長の前に進むと総長は机上にある証書を取って渡して握手する。若しか其の証書が間違っていないだろうかと、心配してみるとやはりYamasakiと鉛筆で書いてあった。証書を手にして劇場の席につく。かくして凡ての学位を受ける学生に証書を授与してから総長の訓辞があって卒業式が終わった。
之は学生にとって在学中の最大の記念式であった。クラブに帰れば下級生や来客によって祝福せられ、写真をとるなどしてひとしきり喜びにしたり、一同が学生としてクラブでの最後の午餐を供にしたことであった。特に此の日我等のクラブから、八年の学業を終えて医博の学位を得た二人の先輩をだしたことであった。自分はロイスシュナー教授の御陰で、優等生になっていたのでおどろいた。此の時の卒業生や優等生の名が日本人新聞に出たので、四、五日後に荷物を整理して池上氏の店へ行くと、知人達から祝辞を受けて面目をほどこした。自分としては長年のアメリカ生活のうち、此の大学四年こそ真に意義ある生活であったと思っている。
八月に大学天文台で、アメリカ天文学会と太平洋天文学会の会があったので出席。此の時、キャンベル博士にブルース金牌が授与せられた。翌日リック天文台のエイケン先生の御宅に参り一泊した。其の夕方、キャンブル博士が例の如く、日没の太陽を御客様に見せていた時、太陽に接して光点を見付け、之が天体であるとして発表した。所がそれが何であったか全々不明のものとなり、Cambell Objectとして残った。之は決してキャンベル博士の誤認とはいえないことは、前に或る日食観測隊が乾板を現像して、それにすい星が出てきたことがあり、数日間そのすい星を探ったけれども、見当らないことがあったのである。
翌朝ウイルソン山天文台長ヘール博士に紹介していただき、博士の紹介名刺をいただいて、其の夕方サンノゼ市からロス行の汽車にのり、翌朝ロス市でバスにのり、ウイルソン山に行く。二千米の高山に150及び250cm大反射鏡150尺の塔形太陽鏡及び80尺塔形太陽鏡をながめた。250cm反射鏡のドームのプラットホームに立つと、其のホームがとてもなめらかに回転するので、それが全く大望遠鏡全体が回転する如きさっかくを起して、とても妙であった。150尺の太陽鏡の下ではセントジョン博士が、太陽のとても大きく拡大せられたスペクトルをとって居られた。此の山は大木のある森林であって、山火事がおそろしいではないかと思った。山上にはホテルがある。之は主に天文台職員の宿舎らしい。職員はすべて一週間又は短期間山上で観測実験をなして、パサデナの自宅へ帰ることになっている。山を下ってパサデナの研究所を訪問した。ヘール博士の御紹介がものを言って、親切に案内してもらい、特に250cmを作った機械や、試験用の大きいガラス鏡などをみて勉強になった。アダムス、シーヤ、アンダースン博士等にお目にかゝった。そして、ロス市でルート氏宅を訪問した。新しいりっぱな家に住まわれていた。二、三の友人を訪ねて再びロス市に帰った。
こゝで少しく当時のアメリカ人の家庭について書いてみたい。自分の居ったRoot氏の所などは、代表的な円満な家庭であったろう。主人は朝食は七時、会社の社長などの如く、九時十時に出勤ということはなく、夕方は五時迄六時の夕食事にはたいてい帰宅する。そして此の人が、酒をのむこともタバコをふかすこともなく、家庭には酒類は一びんもなかった。日曜には家族全体が朝教会に行き正午過ぎがヂンナーとなっていた。此の時はまだラジオやテレビのない時代であったから、日曜の午后をどう過ごすかが一番むづかしい問題であった。何の道楽もなく社員の訪問などもなく、隣人とのおしゃべり相手もない生活であった。それでも時にはショーや映画見物にはでかけた。アメリカの日曜新聞は、平日の一週間分ほどもあってそれを読む丈でも半日はかゝる。時たま訪問者があっても、すぐ茶や菓子など出すことはない。又訪問者でも手みやげなど持ち込む人はない。小供なども遠い学校へ行くものは、サンドイッチ三枚位を紙につゝんで持って行き、帰って腹のすいた時はパンとバターか、クラッカ二、三枚を食う程度で、棚にケーキがあってもそれは夕食用で、決して手をつけない。食事のこんだては大体毎週何曜日には何ときまっていて、特別にめずらしい料理は作らず、栄養第一主義で、肉とパン食の生活は腹が十分満ちていて、間食の必要が無いと言うよりか、それに腹がなれていると思われる。
アメリカ人は実に健康である。七人家族で四年間に床についた人が一人だっていなかったのはうらやましかった。これは生活と食事が規則正しい為であるだろうか。これに反して我が日本人の家庭はどうだ。一家に一人二人必ず病人がたえないではないか。此の点はよく研究すべきことだと考える。
時々夕食にお客を招く時があっても、凡て手料理で心から打ちとけて食事をとる。飲料はコーヒーと水である。前述の如くお客さんでも決して手みやげは持ってこない。主人でも誰でも平日宅へ帰る時、小供にみやげなど一度だって持ち帰ったことはない。クリスマスとお誕生日以外には、おみやげなどよきしないのである。此の点日本人の学ぶべき点ではないだろうか。日本の如く何か手みやげなくて人を訪問すると、気がひけるような考え方は、全々廃止すべきものと考える。日本でボン、クレの御遣物は凡てワイロと考えてよい。日本の政治の腐敗が凡てワイロに在ると思う。アメリカ滞在中の食生活ですばらしいものは、何といっても感謝祭とクリスマスの七面鳥料理であろう。大きい七面鳥の腹にパンや色々の材料をまぜたスタフをつめてむしやきし、其の肉切にクラムベリソースというイチゴのジャムをつけ、汁をかけて食う味といったらとても想像がつかない。その後のデザートのミンズパイがとてもうまい附物である。単に七面鳥のロースにソースをかけて食ったとて、之は七面鳥の料理の部にははいらない。自分はルート氏の家で此の料理を習い、とても上手であるとほめられた。
又日本人の忘れ得ないものに支那料理がある。サンフランシスコのChina Town(チャイナタウン)は有名なものであるが、大きい町ならどこでも支那料理屋がある。アメリカ在住の支那人は広東人であるが、此の料理が日本に居る支那人料理とちがって味がよい。
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