連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.4 4/5
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.7.1

≪解説≫

 「異色の天文学者・山崎正光」No.4 には、My path in Astronomy(私の天文経路)の《3. 大学の巻》を掲載した。これは、エイトケン博士の家のボーイを辞してハミルトン山を去り、再びロサンゼルスのルート家に戻ったところから、1921年5月にカリフォルニア大学を卒業し、8月に大学天文台で行われたアメリカ天文学会と太平洋天文学会の会に出席した後、ウイルソン山天文台を見学してロサンゼルスに帰る。そして、日本に帰る決心をしたためか、当時のアメリカ人家庭を説明するところまでの話である。
 二度目のロサンゼルスでの生活は、わずか1年半で、1912年にレトウッドの北川氏から300ドルを払ってもらったので、Mogeyという光学会社から10cm屈折赤道儀を買ったとある。ここで、「Mogeyと言う光学会社」というのは、ニューヨークやニュージャージーで活躍したウイリアム・モギー社のことである。
 このウイリアム・モギー社は、Henry Fitz、Alvan Clark、John Brashearなどの天体望遠鏡業界のビッグスリーと同等の品質の天体観察用の望遠鏡を作っていた光学会社である。
 ウイリアム・モギー(William Mogey,Sr.1856-1938)は、ニューヨーク市に5人兄弟の長男として生まれた、頭のよい少年で、好奇心旺盛な学生だった。公立学校へ入学し、その後Cooper Unionの夜学で科学を学んだ。  1878年、小さな工場を経営しながら、カメラ用のレンズを磨き始める。
 1882年、大口の顧客だったWilliam T. Greggのカメラと光学系の事業を引き継ぎ、その時、商売の手を広げ、トランシットやスペクトロスコープ、望遠鏡の製造を始める。
 そこで、ウイリアム・モギーは、ニューヨーク市の27番街西418番地で本格的に商売を始めることになるが、1888年、弟のデビッド(David)を迎え入れ、W. & D. Mogey社の共同経営は、1926年にデビッドが亡くなるまで続いた。
 1893年か1894年に、ニューヨークからニュージャージー州ベーヨンに会社を移す。
 1908年に、ニュージャージー州の中央に位置するプレインフィールド(正確にはノースプレインフィールド)に移転した。プレインフィールドの町は、公害が少なく、ニューヨークやフィラデルフィアへの交通の便もよく、産業の中心として発展していた。
 モギー社の新しい工場は、インターへブン通り76番地の1階建てで、敷地内に小さな観測所があったが、ここが最後の地となった。
 ある望遠鏡企業家は、「モギーは、大口径の望遠鏡メーカーとしての評判でアマチュア天文家に支持されているのではなく、同社の多種多様な小口径(2~6インチ)の天文機器と、手ごろな値段により支持され購入されていたのだ。」としている。

(写真)10cm 屈折赤道儀のピニオンハンドル

↑10cm 屈折赤道儀のピニオンハンドル

 山崎氏が、この望遠鏡を購入したのは1912年であるから、ニュージャージー州プレインフィールドで作られたものである。従って、ピニオンハンドルには、“W & D. MOGEY PLAINFIELD. N J”とある。
 また、「300弗を以ってMogeyと言う光学会社から10cm屈折赤道儀を買った。それには赤経・赤緯と自分の特別に注文した時計仕掛がついていて、頗る立派なものであった。」とある。残念ながら重錘式の運転時計は失われてないが、それが付く木製の台が残っている。
 そこで、ウイリアム・モギー社のカタログを見ると、この望遠鏡は、「B-240」で、口径4インチ(10cm)、焦点距離56インチ(1,400mm)で、鏡筒は磨かれた真鍮で出来ていることが分かる。

(写真)赤経(左)と赤緯(右)の目盛環

↑赤経(左)と赤緯(右)の目盛環

 ウイリアム・モギー社は、Davidの死後しばらくして、1927年に会社を法人化し、William Mogey and Sons Co.となった。その頃のカタログを下に掲げる。

(写真)W.& D. Mogey社

↑W.& D. Mogey社

 山崎氏が購入した頃より15年以上経っているので、B-240の価格が570弗となっている。

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