更新日 2022.7.8
また、山崎氏が見学したウイルソン山天文台は、カリフォルニア州ロサンゼルスの東北50kmにあり、ジョージ・エラリー・ヘール(George. Ellery. Hale)がカーネギー財団からの寄付を得て、1904年に作ったものである。先に、ヤーキス天文台にあったスノー太陽望遠鏡を移設して太陽観測所として発足した。 1908年に60インチ(1.5m)反射望遠鏡を、ついで1917年に100インチ(2.5m)反射望遠鏡が完成し、名称も「ウイルソン山天文台」と改めた。
↑ウイルソン山天文台の100吋反射望遠鏡ドーム
この100インチ反射望遠鏡は、30年間に亘って世界最大の望遠鏡として活躍した。アダムスやピース等の学者が、この望遠鏡を使って恒星のスペクトルの研究をし、ハッブルは星雲の研究をした。
↑ウイルソン山天文台の100吋反射望遠鏡
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:100inchHooker.jpg
この望遠鏡による恒星の表面や内部の研究、遠い星雲の世界の研究は、星の世界や宇宙の知識を進める上で、すばらしい力を発揮した。
また、山崎氏が見た150フィート(46m)の太陽塔は、鉄製の櫓の上に反射鏡を据え、副鏡の向きを適当に変えて太陽光を垂直下方に導き、下から分光器で観測する方式の装置である。分光器などの観測装置は、温度変化に敏感なので、主な天文台ではこれらを地下室に置いて観測するようにしている。
↑ウイルソン山天文台の150フィート塔望遠鏡
ところで、五藤光学も、ウイルソン山天文台とは少なからぬ因縁がある。五藤光学は、大正15年(1926)9月の創立で、単レンズで口径1インチ、焦点距離800mmの天体望遠鏡を製造販売した。幸い、小川菊松が社長を務める科学画報社の代理部が、1インチ望遠鏡の販売を一手に引き受けてくれたので、月に100台200台と販売することができた。
しかし、その裏で、五藤光学社長の五藤齊三は、「物を売る前にまず名を売れ」と考え、全国の小・中学校に天文教材の使い方の講習会と天体観測会をセットにして、無料で奉仕すると宣伝した。そして、或る年の7月の始め、北海道の釧路を振出しに順次南下し、12月始めの鹿児島大学を打ち止めとして、数十校で講習会を行った。
↑『科学画報』昭和2年9月号掲載の広告
ここで、天文教材というのが、五藤齊三がセント・ジョン博士から分けていただいたという、「ウイルソン山天文台撮影の天体写真」をスライドのセットにしたものである。
また、昭和2年(1927)頃に発行されたと思われる「ゼウス高級顕微鏡」の説明書の裏に「天文幻燈映画及天体写真目録」というのが印刷されている。これを見ると、その全容が明らかになる。
↑「ゼウス高級顕微鏡」の説明書の裏に印刷された「天文幻燈映画及天体写真目録」(左)
< 4.にもどる |