連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.5 1/5
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.7.15

≪4.帰国≫

 自分も1922年三月に日本へ帰ると決定し、必要な図書を買い込む。その主なものは、アーゲランデルの南北星図と、その星表その他計算表等であった。
 そして永々と世話になり且つ大学まで面倒を見てくれし池上氏一家に深く感謝し友人にも別れを告げてバークレーのクラブに行き、荷造りをなす。望遠鏡の大箱と書籍その他で相当の大荷物をサン市に停泊中のサイベリヤ丸に送り出帆した。もう再び見ることのないアメリカだと思うと、やはりなつかしい思いであった。十七年と言う長い青春を、そして日本を出し時の希望は満たされなくとも、神と人生と言うことについては、いささか知らされしこの土地に対して感謝の祈りをささげて、夕闇せまるサンフランシスコを後にした。
 ホノルルではサン市で知っていた小室牧師に迎えられ、ハワイの島をドライブし風呂と食を与えられてうれしかった。船には中央気象台の藤原博士が欧州留学の帰途、一等船客として乗っておられたが、一寸自分を室によばれて色々話をしてくれた。博士はストックホルムかオスロかの大学で渦巻の研究をしたとのことウイルソン天文台で渦巻星雲などの写真を見て、地球の山脈も渦巻をしていると論じたところ、そこの技師の方もなるほどそうかと感心してくれたとしゃべったが、自分は少々これはちがったと思ったので、少しも相づちを打たず是はどうもと引きさがった。渦巻は台風研究に必要であろうが、日本山脈の渦巻の為にそれるわけでもあるまいが、現今、1958年に至るも、藤原博士のお弟子のおらるるある気象台などは、毎年台風では新聞でいじめられているようだ。ハワイを出て数日目かに暴風に出会う。物すごい波が甲板を洗う。船のどうようもひどい。少し波のしづまった頃船のへりをのぞくと、数十米もある波の谷とうねりであった。逆様にかゝる白扇、フジヤマ、日本の象徴、などと呼ぶスリバチ山も、太平洋を三度も往復し六回もお目にかゝる頃には、もう大した感げきでもない。船が横浜に着き、上陸して税関の検査に何も税のかゝる物もなく、荷物はひとまず宿屋にあづけ上京して二、三日滞在。それより高知へ帰りついた。三年目のこととて大したこともなく、生活問題を考えて、母校中学の旧師をたづね先生の口をきいてみたところ、幸い英語の先生が一人入用だとのこと、すぐ話がまとまり四月から先生となった。
 やはり橋本夫人の言ってくれた通りであってうれしかった。23年一月に男児出産、親兄弟より大変よろこんでもらえた。この高知県立海南中学校と言うのは、自分の子供の時の吉田校長時代の如き、兵隊学校のおもかげは無くなって唯残るものは、旧校舎と学生の服装だけであった。冬期は紺の和服にはかま、夏は麻の着物に紺のはかまで、それにランドセルと靴であった。県下でもこの学校だけが和服であった。帽子も黒の学生帽となり、昔の如き赤の兵隊帽はやめていた。陸軍の赤帽は元々海南学校が元祖であった。
 四月の始に京都の新城先生から大学へこないかとのこと。中学校も面白いが大学となると、もっと前途に希望がもてると考え、気の毒ではあったが中学の方をやめて京都に出た。京都の方は宇宙物理学教室と言って、新城教授の下に当時アメリカ留学中の山本氏と上田両助教授がいて自分は講師であった。ここに中村要という助手の天文家がいた。火星表面の観測では日本最初の開拓者であった。中村氏が火星面を見るまでは今迄の日本の天文家は、誰一人として運河の写生をなすことが出来なかっただけに、僅か十センチ屈折を用いて火星を観測して作った火星図など信ずるものはなかった。自分も火星を観測したけれども、大シルチスをぼんやり見る程度で、運河など一度もみたことはなかった。
 この年の夏オーストラリアで汎太平洋学術会議があって、新城先生が行かるゝことになる。その時新城先生が水沢緯度観測所に技師が要るが君行きませんかとの御相談を受けた。それに対しては何とも御答え出来なかったが、先生の御留守中かゝって水沢で数年技師をせられていた上田先生が、最近二ヶ月間木村博士の御留守中に水沢で手伝われたことなどから、よく水沢の御話しを聞いてからよい所らしく思ったので、先生に御世話を御たのみした。この年1923年すなわち大正十二年九月一日の正午前に、自分等三人ほど事務室にいた時、大変長時間の地震を感じた。夕方関東大震災の報が刻々と出たのでおどろく。それから四、五日と言うもの何も手につかず放心状態であった。九月末に新城先生が帰られたので、改めて水沢行のことを御願いした。これより前に木村博士が京都へ来られたことがあって、その時お目にかゝったのは或いは首実験の意味もあったのではないかとも思われた。いよいよ話がまとまり十二月七日付で辞令を受けたので、すぐ出発の準備をなし十二月廿日頃京都を立った。翌朝横浜東京とくるに従って震災のひどいことにおどろいた。水沢は有名な寒い所と聞かされたが、寒国ならそれ相当の防寒用品もあるだろう位で、東京で一枚うすいセーターを買う。二泊して震災あとを見廻りクリスマスの夕方上野駅から二等車に乗った。夜行のこととて見るものもなく、長時間ねたりさめたりして朝仙台についた頃から薄明になり、それより三時間後やっと水沢に着く。
 ホームには役所の用員さんが三人待っていてくれたので、荷物をはこんでもらい自分達は人力車で官舎に向う。道がよくかわいていて立派であると思ったのはすっかり氷っていた為であることを後で知った。官舎について見れば、畳に炉が切ってあってそれに火が入れてあった。オーバーなどぬいで座っているとだんだん寒くなってくる。そこで初めて寒い所であると感ずるようになった。翌日所長木村博士、先任技師川崎、池田両氏、庶務の釣谷と言う人々に着任のあいさつをなす。独身者で官舎に居る人がたは一月四日まで休暇で不在であった。
 官庁でも元日には拝賀式があるとのことで朝九時フロック着用で長官室に入り、長官の側に技師三人が立っていると判任官が入ってくる。その主席が「判任官を代表し謹んで新年を賀し奉ります」という長官が、其の旨言上致しますと答礼する。次で雇員用員全部が並ぶと其の中の主席が「雇員用員を代表し謹んで新年の御祝を申上げます」と言うと、長官は唯礼をかえすのみであった。此の時始めて高等官になると官庁ではえらい者らしいと言うことを知って、更めて木村博士や新城先生の御厚情を感謝し高等官七等から新しい人生のスタートを切ったのであった。

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