連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.5 2/5
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.7.22

 四月四日から勤務が始まる。それまでに役所の生命である天頂儀観測について博士から教わっていた。当分の間夜間の本観測の前に、二時間位づつ実際に練習することであった。天頂儀というものは子午儀の如く、子午線の大円孤を南北に連動して、天頂距離を測定するものであって、其の望遠鏡は正確な水準器によって高度を合わし、西側と東側で同一の高度を変ずることなく、中心の垂直軸によって回転できる。地球の緯度というのは観測者の点に於ける地軸の高度又は其の天頂から、天の赤道迄の角度で星が此の点をとおるなら、其の星の赤緯と一致することになる。今 Sを天頂の南の星の赤緯とし、
    Sを天頂の南の S迄の天頂距離とせば、
    緯度φ=δs + Zs  同様にして天頂の北に対し
    φ={(δs+δn)÷2}+{(Zs+Zn)÷2}
 此の二個の星の赤緯は表によって正確に知られていて、その天頂距離は殆ど同じ位である星が始めから選んであるから、Zの差はわずかである。此の差をマイクロメーターで測定することが、この天頂儀の観測である。此の方法をタルコット法と呼び、緯度の変化の僅か20cm、30cmのずれまでも知ることが出来る。之は眼視的であるが、写真によるものも此の方法の応用である。観測に於ては始めの星を軸の西側又は東側で測定する為に与えられた高度に、望遠鏡をセットして時間を待てば星が見え出すから、其の星の通る位置にマイクロメーターの線を合して、直にその目盛を読みとること四回にして帳面に記入し、すぐそのまゝ反対の側に回転して、次の星の来る時間を待っていると星が入る。其の時直にマイクロメーターの線を合わして四回読み取りて帳面に書き込む。此の星を線に合わすと言うことをバイセクトと言うのであるが、これが此の観測の生命と見るべきものである。
 一月になると雪が降り出した。一晩に20cm、30cm或いはそれ以上つもりだした。此の雪はもう根雪となり氷ってかたくなる。朝の最低気温は零下五度十度、夜間の観測時には十度以下の日がつづくようになる。官舎の屋根の雪は日が照るととけるが、それがしたたる時に氷って、つららとなって50~60cmもさがる。屋根の雪は屋根からすべって、屋根に湾曲してさがる。此の状態はアメリカのハミルトン山で見て知っていたが、水沢は寒いだけにそれがひどい。寒国には相当の防寒服があるものと期待したが、来て見れば全々それがない。地方人はそれ程寒くないかも知れない。そこで自分は蒙古人の着る如き木綿の綿入でオーバーの長いものを作った。頭には深いづきんをかぶることにした。之が案外成功であった。池田技師が見て蒙古人そっくりだと言ってひやかしたが、自分は水沢で押しとうした。一月末となると大寒で、零下二十一度にもなった朝があった。こうなると台所にある豆腐もコンニャクも氷る。それで此の頃になると田舎から自分で造った高野豆腐を売り歩く。又水池を利用して天然氷も造っていた。幸に水沢地方は木炭の産地で、家庭で火ばちやコタツに火を用うるには不自由は無かった。
 水沢で始めて吹雪を経験した。九州四国の台風が東北人にはピンと頭にこない如く、東北の吹雪は暖国の人にはわからない。気温零下十度以下、風速十米以上雪は猛烈にとぶ。戸障子のすきまより雪はどんどんはいる。地上には吹きたまりが出来、道も溝も一つになる。不案内の人は溝に落ち込む危険がある。日露戦争の前年、青森連隊の一個大隊が八甲田山で吹雪の為にたおれた。日本陸軍の最大の事故も思いやられた。三月という声をきくと雪もだんだん解け始める。すっかりとけるのは大体四月上旬である。然し二月、三月に雪の降らない日とては殆ど無かった。
 四月七日からいよいよ自分も本観測をやるようになり、木村博士も創立以来廿四年の長きに亘る夜間勤務から開放せられたわけである。Z項発見と共に此の点に於いても国宝的存在である。
 本観測をはじめて間もなく川崎技師が廿日の休暇をとったので、自分と博士が二晩交代で観測していた時、夜の九時頃自分は非番で家にいたら、用人が来て「お晩です」と言う。はて今夜は自分の番でないのだと思ったけれど「そうか」と返答して、外に出て観測室へ出ておると博士がこられ、君今夜は僕の番だよといわれた。其の後知ったことであったが「おばんです又はばんです」ということは「今晩は」というあいさつだということがわかった。仙台のズウズウ弁ということは聞いていたが、水沢の言葉はわからない。「数年後小供等が成長するに従い、水沢弁になるのでそれに教えらるる折りもあったが、結局自分は水沢生活十八年で、まだまだ充分水沢人の話はわからなく終わった。」
 四月に入って梅の花がさき初め、つづいて自分の官舎にあった見事なあんずの大木が美しいもも色の花を開いた。つづいて役所の吉野桜に山桜がさき初む。五月いよいよ水沢の春。万花一時に開いて其の美を競う有様は、とても暖国の人には想像が出来ない。土佐の山桜などは花弁も少ないが水沢の山桜は、吉野の如くゆたかで唯葉が早く出る丈である。そして二週間位して散り始む。実際義家の言いし如く、道もせに散る山桜で花吹雪である。こゝで始めて義家の歌がホラでないことを知った。その後、桜の花に雪のつもった年もあった。
 七、八月の夏はやはり暑く、裸で暮す日も多かったが、八月中旬となれば、はや朝夕ずっと涼しく秋風の吹く頃となった。九月十月の水沢の秋はすばらしい。近くの森にはめずらしいキノコがあって、人々がキノコがりをする。中でも最もめずらしいのは山奥から出るコウタケと言う直けい30cmもあるかおりのよいキノコである。十月は実に美しい紅葉の季節。落葉樹の葉はことごとく赤、黄の色となり、野も山も一面紅葉をなす。自分も見事なる景色にはおどろかされた。十月に水沢名物のいもの子会が天文台の原で行われた。里いもの子に鶏又豚肉それに豆腐とキノコを入れた味噌汁を、役所の要人室の炉にて数時間にて、家族や所員一同が食器を持ちよって充分にごちそうになる。とてもすばらしいリクリエションであった。之は毎年秋に行われた最大の慰安会であった。十二月十一日は役所の創立記念日で、役所から所員に祝賀会食が出る。之が終ると早や正月と言うことで着任一年を迎えた。水沢の秋にはリンゴ、ブドウ、栗など豊富であり、冬には野鳥の多いこと、キジ、山鳥、カモ其の他色々の小鳥が店に出て、実に食生活にはめぐまれた土地である。

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