更新日 2022.7.29
こゝで少しく緯度観測所の歴史について話してみよう。地球の極軸は遠き昔の地質時代に、大きく変化したでは無いだろうかと考える学者もあったが、天文学的に之を証拠立てるものは何物もなかった。十九世紀の終り頃になって、理論的に地軸はわずかながら、変化するものであると言われ出し、アメリカの天文学者ニューコム博士は、地球の中心が鋼鉄よりもかたいならば、地軸は四百日の周期で変化すると言った。又チャンドラー氏は1750年以来の天文観測を綿密に研究して、地球の緯度は428日を週期として変化することを発見した。又ドイツのキュストナーは、ベルリンに於て1888-1889年にわたり精密観測の結果、変化のあることを知った。そして1896年の国際測地学会で之を取り上げ、世界で同一の緯度で一様の機械と方法で共同観測をしようと言うことになり、北緯39度八分の所に六ヶ所の地を選んだ。日本岩手県水沢市、アメリカ加州サンフランシスコの北方ユカヤ、オハヨー州シンシナチ、ワシントンの北方ゲイザスブルグ、ロシアトルキスタンのチヤールジュイ、イタリヤ、サーヂニア島のカーロフォルテの六ヶ所、機械はドイツのワンシャフ製口けい75mmと100mmの天頂儀を供給した。水沢とユカヤとゲイザースブルグには大きい方を供給してくれた。
そこで日本では1897年、田中舘博士と木村氏が土地を選定して建設を始め、99年九月から各国が観測を始めた。水沢では木村博士が所長で、中野技師と他に会計其の他で、全部九人の家族でスタートしたわけである。そして毎月観測帳を、一冊はドイツの中央局に送り、一冊は写しとして役所に保存した。中央局では初めの二ヶ年分を整理して其の結果を発表した。所が其の時日本の観測が一つ他と違うと言うので、五十点ということにした。之を見た木村博士や日本の天文学者がおどろいた。何せ日本は支那に勝って初めて其の存在を認められた時代である。精密観測などとても信用出来ないという考えもあったかも知れない。しかし、之は日本の面目にかゝる一大事件であったので、木村氏や田中舘博士が心配し徹底的に研究することになり、先ず望遠鏡の不整に有るではないかと考えて、之を分解するやら計算をやり直すなどしたけれども、何の欠点も見出し得なかった。それで博士は寝食を忘れて研究すると言う有様であった。そのうちふと之は、或いは計算公式の欠点ではないかと気付き、今迄用いていた緯度変化による極軸の変化量の公式
Δφ=X cosλ+ Y sinλ
と言うのを、
Δφ=X cosλ+ Y sinλ+ Z
とZと言う項を加えて計算をして見ると、何とおどろいたことに水沢の観測結果が一番よく一致することを発見し、世界の天文学界をおどろかした有名なZ項の由来である。それからの数年の間日本天文学界はZ項の原因についての研究が盛んであった。外国でも木村のZ項と言うのは有名なものとなった。おかげで観測所は有名になり、岩手県の名所にのし上がり名士の訪問も多くなったわけである。こゝで特筆すべきは皇太子殿下の御成りと言うことである。時は1917年(大正七年七月七日)のことである。之は観測所の光栄で、町は勿論県あげての御歓迎であることは想像される。此の時エピソードに橋本技師の武勇伝がある。此の様な時には沿道の警備が特にやかましい。その筈である。万一にも不敬事件でも起きようものなら、たちまち内閣がづぶれるからである。御召列車の御着きになる一時間も前から町は通行止、警官は五米十米に一人づつ立番をする。そこを橋本技師が車で駅へ御迎えに行くべく出ると警官に制止された。橋本氏も大切な任務でいらだった所とて警官をなぐった。警官も盛岡からの応援の者で、橋本氏を技師だと知らなかったから御役目止むを得ない所、まあ之も引き分けでおさまったらしい。その日殿下が役所を御覧の後、御車に乗られたので、木村博士がお側で頭を下げて御見送りしようとした時、殿下が「木村今日の話は解らなかった。あとで紙に書いて出してくれ」と言われたので、博士もきょうしくしたということを唯一度話された。博士は決して軽々しく物事を語られないから、之はいつか自分が貴重なエピソードとして伝えたいと思っていた。
1921年に木村博士は緯度変化委員長となり、水沢が中央局となったので役所も立派な新館が出来た。従って所員も多くなる。1924年は創立二十五年に当たるので、その年の秋盛大な祝賀会を行う。その一つに小学校で講演会を行い、博士をはじめ他の技師の講演あり、自分も沢山のスライドを持っていたので通俗講演をなした。
水沢の天気は悪いと言うけれど、之も比較的のことで冬二ヶ月は悪いが、六月に東北北海道には梅雨がないから、一ヶ年を通して欠ける月がないのがとりえである。自分は夜な夜な星をにらんで暮す職業をつとめる。そのうちに余暇を利用するといっては甚だ博士には相済まないが、ついに反射鏡をみがくことを始めた。又自分の十センチ赤道儀を取りよせ、役所のすみの方へすえ付けて変光星の観測をも始めた。同時に20cm反射鏡を役所の工場の方に頼んでマウンチングをやってもらい、所員で天文をやってみたいと言う人に太陽観測をやらすと言う名目で之もすえつけて、自分がもっぱらすい星ハンチングに使った。こうなっては博士にとっては甚だ面白くない。緯度観測所は元々地球の緯度の変化を研究する所であるから、所員たるものはそれは尽力するようにと言わる。
御尤ものことであることは十二分に承知ではあるが、自分としてはやはり此の道楽は止められない。それで勿論非番の時や観測時間外に、博士にかくれてやる気持であった。
1928年十月廿七日の朝二時頃、しし座χ星の西北1°の所に大きさ3′光度10等のすい星を発見した。先ずその位置を正確に知る為に詳細な写生図をとり、しばらく見ていたが運動が明かでない。そのうちにくもり出したので明日見ようとしたが曇天つづきで見えない。確かに自分は三日位して東京天文台へ、すい星らしきものを発見したが曇天続きで見えないから、写真で此の位置をさがしてみて頂きたいと申し入れたが、発見するに至らなかった。自分も其の後天気になった時、それをさがしたが見付からなかった。川崎技師には自分がすい星を発見したが見失ったと、早くから報告はしてあった。其の後十一月十九日に南阿ケプタウンのホルベス氏が六等星のすい星を発見した電報が日本に来てから、或いは自分の発見したすい星が、それではないかと思うようになり、東京天文台から写生図を送ってもらいたいと言われてすぐに発送した。山本博士からも写生図をと言われたけれども、東京天文台へ送ったから位置はそこから知らせてもらうように返答した。これは東京天文台は同一のものを二ヶ所に送った時は、相手にしてくれないと言うことを聞いていたからである。イギリスのクロムメリン其の他の学者が軌道の計算をなして、山崎ホルベスすい星は同一のもので二八年余の週期をもつものなることが知れて、頗る有名なすい星にのしあがった。アメリカの太平洋天文学会から、新すい星又はそれに類似の発見者に送るドノホー賞牌第百廿四番が送られた。之は日本人で最初の受賞者で評判になった。唯一夜の観測ではあったが、正確な写生図が証拠となったのであるから、誰でもすい星捜索の時は疑わしき星雲状の天体を見たときは、正しき写生図を取っておかねばならぬ。日本ではすい星捜索はアマチュアのなすべきことで、学士博士のすべきことで無いように考えて居る人もあるが、之は大きな間違いである。東京天文台などにはドイツから20cmのすい星捜索機まで買込んで居るが、之をちっと使って新すい星の発見でもやってもらいたいものである。
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