連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.5 4/5
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.8.5

≪解説≫

 「異色の天文学者・山崎正光」No.5 には、My path in Astronomy(私の天文経路)の《4. 帰国》を掲載した。これは、山崎氏がカリホルニア大学を卒業して日本へ帰ることを決定した時から、山崎フォルベス彗星(現:クロンメリン彗星)の発見者としてドノホーメダルが贈られたところまでの話である。
 山崎氏は、1922年3月、日本に帰る時、アルゲランダーの星図と星表、その他計算表などの必要な図書を買い込んだ。下に掲げたのは、その時のアルゲランダーの「ボン掃天星表」全4巻のうちの第4巻である。

(写真)アルゲランダーの「ボン掃天星表」第4巻

↑アルゲランダーの「ボン掃天星表」第4巻

 ボン掃天星表(Bonner Durchmusterung)は、アルゲランダー(F.W.A.Argelander)とシェーンフェルト(E.Schonfeld)によって作製された全4巻からなる掃天星表である。
第1巻(赤緯 -2°~ +20°、星数11,0985)は1859年に、第2巻(+20°~+40°、10,5075星)は1861年に、第3巻(+40°~+90°、10,8129星)は1863年に、第4巻( -23°~ - 1°、13,3659星)は1886年に刊行された。このうち第1~3巻はアルゲランダーが、第4巻はシェーンフェリトが作製したものである。

(写真)山崎氏のスタンプの押された第4巻の扉

↑山崎氏のスタンプの押された第4巻の扉

 山崎正光氏は、1923年4月に京都の新城先生から大学へこないかと誘われ、中学校には気の毒だったが京都大学に行くことにした。京都の方は宇宙物理学教室といって、新城教授の下に当時アメリカ留学中の山本氏と上田両教授がいて自分は講師であった。ここに中村要という助手の天文家がいた。火星表面の観測では日本最初の開拓者であったとある。
 五藤齊三は、天体望遠鏡の製作を仕事として行う以上、天文に関係されている全国の天文台の台長や先生方の知己を得なければならないと考え、積極的にお近づきを得るよう努めた。京都大学天文台長の山本一清先生、上田 穣先生、中村 要氏、東京天文台の早乙女清房先生(第3代東京天文台長)、その他の先生方とも親交があった。

(写真)中村要氏(左)と五藤齊三(右)

↑中村要氏(左)と五藤齊三(右)

 上の写真は、大正15年3月27日に商工奨励館で撮影されたものである。また、中村 要には、下に掲げたものと『反射屈折 天体望遠鏡 作り方観測手引』などの著書がある。

(写真)中村 要著『趣味の天体観測』と『反射望遠鏡』

↑中村 要著『趣味の天体観測』と『反射望遠鏡』

 下の写真は、瀬田の五藤氏宅で撮られた山本博士。

(写真)五藤齊三(左)と山本一清博士(右)

↑五藤齊三(左)と山本一清博士(右)

 また、上田先生は、大正2年(1913)に第一高等学校卒業、大正5年(1916)東京帝国大学理科大学卒業、大正8年(1919)緯度観測所技師、大正11年(1922)京都大学助教授、昭和6年に京都大学教授となった。従って、山崎氏が京都大学に行かれた時は、上田先生がちょうど助教授になったばかりであった。

(写真)上田 穣著『日食敍説』と『天体観測法』

↑上田 穣著『日食敍説』と『天体観測法』

 上田先生には、上掲のような著書がある。著者が過去の日食を調べるときは『日食敍説』を、六分儀やトランシットの使い方は『天体観測法』から学んだ。

(写真)説明用のミニチュア六分儀

↑説明用のミニチュア六分儀

(写真)筆者所有のトランシット

↑筆者所有のトランシット

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