更新日 2022.8.19
1923年4月、新城先生から京都大学に誘われた山崎氏は、その年の夏、今度は水沢緯度観測所に行かないかと誘われる。そして、9月末水沢行を願い出、12月7日に緯度観測所技師に任ぜられ、高等官7等に叙せられ、8日には観測勤務を命じられる。そして、10日に京都を発ち、26日に緯度観測所の官舎に入る。翌日、所長木村博士、先任技師川崎、池田、庶務の釣谷などの人々に挨拶、独身者で官舎にいる人々は1月4日まで休暇で不在であった。
翌年の1月には根雪が降り出し、一晩で20cm、30cm、あるいはそれ以上積もる。そして、1月末には零下21℃にもなった。水沢で始めて吹雪を経験した山崎は、日露戦争の前年、青森連隊の一個大隊が八甲田で吹雪のために倒れた日本陸軍の最大の事故も思いやられた。と述べている。
↑1967年12月31日八甲田山仙人岱ヒュッテ付近で左が筆者、背後には大岳が聳えている
筆者は、山形県の片田舎の出身で、今は正月でも雪はないが、子供の頃はクリスマスの時には根雪が積もっていたものだ。ところで、1967年の年末年始の休暇を利用して八甲田に行った時、夏に杉の大木のてっぺんに結んであった赤いリボンが、正月には足元にあったので驚いた。それほど雪が深いのである。従って、雲谷(もや)から酸ヶ湯温泉までのバスが運休しているので、雪上車をチャーターして入らなければならなかった。
しかも、われわれが酸ヶ湯に入った晩、地元の山岳救助隊の方々がラッセルしたところ、大雪のため1時間に10mも進めなかったということで、翌日の登山は中止になった。そこで、山に入れるようになったのは大晦日の12月31日である。
朝、酸ヶ湯温泉に集まった7、80名の人々が、1列に並んで山に向かって進み始める。当時のスキーは、今のような短いものではなく、腕を伸ばしてスキーの尖端が握れる2m前後の長さである。そのような長いスキーを履いても、新雪の上では胸のあたりまで潜ってしまう。そんな状況の中、先頭の人が雪を?き分けながら進み始める。そして、その人が疲れると横によけて、今度は2番目の人がラッセルを引き継ぎ、さらに3番目、4番目の人と先頭が交代しながら進んで行く。我々は、いくら頑張っても2、3mしか進まないが、地元の人は10m、20mと進んで行く。そうして、昼には大岳と硫黄岳の間の仙人岱ヒュッテに着いた。
そこで、軽く昼食を取り休憩する。晴れているが、舞い上がった雪煙りが風に乗って真横から飛んで来て、頬に当たって痛い。時には山裾の方から吹き上がって来ることもある。
さあ、いよいよお楽しみの滑走だ。先頭が新雪の上に鮮やかなシュプールを描いて滑り降りて行く。深さは、ラッセルの時と大きく違い、30cm前後である。次々と滑って行き、我々もそれに続く。しかし、ゲレンデでしか滑ったことのない我々には、狭いシュプールに沿って滑るのは至難の業だ。少しでもシュプールの横の壁のようになっている新雪に、スキーの尖端が触れると吹っ飛ばされる。
そうすると、新雪の中にすっぽりと身体が埋まってしまい、目を開けると辺りが真っ暗だ。わずかに明るい方をストックで突っつくと青空が見えた。そこで、立ち上がろうと腕を突っ張ると、腕が雪の中にずぶずぶと入ってしまって立ち上がれない。そこで、今度はストックで突っ張ってみたが、ストックもずるずると雪の中に入って行くだけで、やはり立ち上がれない。すると、青空の見える穴から顔が見えて、だいじょうぶですかと言って、ストックを引っ張ってくれたので、ようやく立ち上がることができた。
八甲田山は、そのような状況だから、普通よりも少し幅が広いといっても短いスキーでは、重い装備を背負った兵隊はもっと雪に潜ったに違いない。筆者は、新田次郎の『八甲田山死の彷徨』を原作として作られた、高倉健、北大路欣也主演の映画「八甲田山」で見たが、現実はもっと悲惨だったかも知れない。
最後に、山崎氏による新彗星の発見の話である。1928年10月27日の早朝2時頃、しし座χ星の西北1°のところに、大きさ3′光度10等の彗星を発見した。このことについては、「異色の天文学者・山崎正光」No.1に詳しく書いた。そちらを参照していただきたい。ともあれ、この発見によって山崎氏は、アメリカの太平洋天文学会からドノホーメダルを受賞した。これは、日本人として最初の受賞である。
そのドノホーメダルをはじめとする山崎正光氏の遺品は、現在、岩手県奥州市の奥州宇宙遊学館(旧緯度観測所本館)で展示されている。
↑上段中央がドノホーメダル(奥州宇宙遊学館)
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次回もお楽しみに。