更新日 2022.8.26
本記事の掲載にあたり、転載した資料の中には、一部、現代では不適切な表現が見られる部分もありますが、資料的な意義を考慮し、そのまま掲載いたしました。ご了承ください。
役所の天頂儀も古くなったから、レンズが少々曇ったので新しいものととりかえた。ドイツのバンベルヒ、アスカニア会社製で、口けい百十ミリ、焦点距離1289mmで他の部分は全く前のものと同一で、観測室は四米平方の新築となる。1927年十月から一ヶ年間の古いものと比較計算をなしてから、本観測の計算に出るようになった。
1929年は木村博士の還暦に当たるので、所員一同が盛大なお祝をした。余与には各人一芸ずつ出すことになる。今おぼえておるのは、佐藤、小幡両技手の旧劇いざり勝五郎、二人がかつらをかぶり佐藤氏が小さい車に乗せられて、その妻がそれを引き「もーす、もーす勝五郎様もみずのあるのに雪が降る・・・・」とてもよく出来たので大かっさい。鈴木技師は詩吟。用人達の大黒舞と尺八。池田技師は本場の安来節に合わせてどじょうすくい。その出立ちや服装がこっていて、とても上手の芸には一同腹をかゝえて笑う。自分はアメリカ黒ん坊の足おどり。手拭を墨でぬって面をつくり、板の舞台の上で靴の音をリズムにあわせてやるのであって、之も大笑の一つ。その他各人が色々出し物があった。大変なにぎわいで博士に対する所員の真心のあらわれであったことは確かである。
1932年三月三日の早朝、東北三県に大地震と津波があった。不意に家がゆれ出したので、一同飛び起きて縁に出る。いざとなれば雪の上に出る用意をして待つ。丁度小舟に乗った如くゆれ、庭のアンズの木が大きくゆれている。自分の家では棚から物は落はしなかった。しばらくして止んだので外に出て望遠鏡を見に行ったが異状は無かった。水平動の場合には大体望遠鏡には異状はないらしい。リック天文台の90cmの大望遠鏡なども何の異状も無かったからだ。その時の岩手県の惨状は、この度この文を書くに当たって、鈴木技官が送って下さったのを拝借して伝えてみる。
「昭和八年三月三日午前二時三十分頃岩手県釜石東方はるか沖合に強震を発し、北は千島北海道より東北関東地方の全般、中部地方大半より近畿地方に亘り震い、関東以北、北海道に至る太平洋岸は強震区域となり、岩手、宮城最も強く二三軽微なる被害あるも、地震後数十分にて襲来した大津波により、三陸沿岸殊に岩手宮城両県にては被害甚大、就中岩手県沿岸に於ける惨状は言語に絶した。最高波浪は岩手県気仙稜里湾にては23米を測る。尚地震後各地にて音響を聞くものあり。又地震と同時に発光現象を認めたるものあり。津波の被害は岩手県のみにて死者2522人、傷者881、不明1186、家屋流失3850、倒消1585、浸水2520、船舶流失5860の大被害があった。」
三陸大津波というのは自分が小学校のときにあって、その惨状を幻灯で見たことを覚えておる。盛岡測候所長福井氏は、前回より33年目には必ず大津波があると思うといわれたが、偶然かどうか知らないが適中したように思われた。地震の大家を以って任じていた今村博士は、この頃欧州まで出かけての帰途、所々で今日では地震の予報が出来る迄になったといって居るとの新聞報道を読んで、日本では今迄一度も地震の予報の当たったことが無いのにいまいましく思っていた。福井氏のこれも予報が当たったとは受取れないようだ。
川崎技師はこの年から二ヶ年間、英独に留学のため出発せらる。そしてグリニッチ天文台にて風と緯度変化の研究をなし、それによって35年に学位を得た。これでやっと所長二代目の候補ができたような気になる。
池田技師は、京大は川崎技師と同期で物理、数学が専門であるが、大学では物理科の出身。観測所が中央局となったとき、気球を揚げることも熱心に指導せられた。氏は何でもよくせられたが、洋画も上手で自分も油画の手ほどきを受けた。役所には用人室に大きい炉がある。ここは役所のクラブの如きもので、所員が朝夕時間外に集まり炉辺物語で花をさかす。その時池田技師に交ってもらわないことには、話がはずまないという程重要な存在であった。池田技師は子午儀で時刻の観測や緯度観測も練習をつまれた。特に木村博士が中央局長として、受持った部分の観測を整理し、1935年緯度観測報告第七巻を出版するに当って、多大の努力を以ってその計算と整理を受持ち、又1940年の第八巻の出版にも同様の仕事をせられて、木村博士を助けたことの業績が、後日氏にとって大変な幸運をもたらしたのである。
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