連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.6 2/5
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.9.2

 1936年6月19日に北海道日食が見られる。これは1896年に同じ北見で見えてから40年目にあたる。誰でも日本で皆既日食が見えるということに対しては興味をもち、事情さえゆるせば観測に出たいものである。自分としても是非これは観測したいと思って、色々準備しつつあった。勿論緯度観測所として出張させてもらえるとは、毛頭考えてもおらず、自費にて行こう。それには小型コロナ写真と眼視観測95mm活動写真機で、日食風景をとろうと思っていた。学術研究会議では日食委員が出来、木村博士も勿論その一員であった。委員会では大学やその他研究に費用を出した。1935年もおしつまり日食の日も近づいたのに、博士の口からは日食ということは一言も出なかった。川崎技師はついに博士に、自分は日食行の権利をすてるから、山崎を出したらどうかといわれたらしい。そこで或る日三人の前に自分が呼ばれ、日食に行くならどこか役所に関係のある所を手伝うことにして行ってはどうかと聞かれた。自分は他の仕事を手伝っては観測が出来ないから、単独で自費で行かしてもらいたいと答えた。翌年一月の或る日、博士が東京に出て居られたとき、委員会から役所宛に日食観測について計画の報告をせよとのことで、留守をあずかる川崎技師が自分に、東京に行って木村博士にあって見るがよいと言われたが、自分は甚だ面白く思わなかったけれども、或いはいくらか委員会から金が出るようになるかも知れないからとも言われた。自分は個人の観測計画など、委員会に報告する義務はないと思ったが、つまらぬことでさからう必要も無いので、上京して博士をたずねた。
 甚だ不機嫌であったがいわるるままに書類を出した。その時もう委員会の金は、出ないだろうと言われた。この日、五藤光学の主人にあったとき五藤氏は、今、朝日新聞社の後援で活動写真機四個を用い、コロナとフラッシのトーキー写真をとる計画だが、その字幕に一人は専門家の名が入用だがはいってくれないか、費用は凡て新聞社から出ると言われたので、これはよいことだと承知した。この年2月26日に軍隊反乱事変があり、朝日新聞社は占領せられて、日食どころでは無くなった。それでも五月の始めになって日食観測は、計画通りやることになり、五藤の方では昼夜兼行で15日迄やっと凡ての準備が出来た。観測所の方でも自分の出した委員会への報告が、公のものとなったからには、役所の出張ということにしなくては具合が悪くなったので、4月に別に助手を出して二人で行くことになった。そこでまず観測地の決定があるので、朝日と同所にするために自分が5月始めに北海道に行き、北見のオコッペに決定した。観測所の技師が民間の新聞社と協同でやるということは、よくないという学者も出るようになり、世間の評を気にする博士はこれがたえられなくなり、新聞社と縁を切ってくれというので、自分もこのようなことで所長の気を悪くするのも面白くないので、不本意ながらそれを聞き、14日にオコッペに着いてから五藤氏の了解を得たのであった。朝日の計画の観測が上々成功であって、そのフイルムを見た時に、これらの反対をとなえた学者達も感心したことであった。
 さて6月19日の朝起きて天気を見ると大体晴れていた。食の始まる前から雲が出たけれども、太陽の見える時間は多かったので、皆既の時にもよいかも知れないと空を見ていた。自分等の観測地は興部小学校々庭で、北見海岸線の曲り角に当たり、新聞社の旗が三本ほど立っているのが見え、毎日見物客でにぎわった。19日には町の人達も大ぜい校庭に集まって見物す。皆既食は3時19分58秒に始まる。12時頃には雲のため太陽は見えなかったが、2時過から欠けた太陽が見え出す。空は次第に暗くなり三日月の太陽となった時、シャドウ、バンドが20cm位の巾の波になってゆれる。温度もぐっと下がる。天文書などを見ると、皆既になると急に暗くなるとあるが、自分はこれを信じない。皆既の前に黒色の眼鏡で目をならして置けば、必ず急に暗黒になるとは思えないから、五藤光学に注意して観測者は全部黒眼鏡を用いた。これは成功であった。
 皆既の前コロナが見え出すと、すぐ眼鏡を取り除いて太陽を見れば、全く美しい真珠色のコロナと太陽の紅炎で、急に天に花のさいた如くで一同かんせいをあげてよろこぶ。観測者は観測や写真でいそがしいから、唯この風景だけ見ておることは出来ない。この日の皆既は1分50秒の短いものであって、生光の時の太陽が一寸出るしゅん間に美しいダイヤモンドリングが見えた。それから間もなくコロナも消えて、待ちに待った日食は終わった。この日食に北海道へ幾十万人の見物人が集まるだろうなどと宣伝した人があって、斜里町などでは餅を作って売らんと準備していたのに、あまり見物人も集まらず餅のしまつにこまったと新聞に出ていた。つみな話である。
 昔から皆既日食は単に肉眼で見ても、めずらしく面白いものであるから、遠くまで観測に出たものであるが、十九世紀の後半になって、写真観測によって多くの貴重なる観測が行われた。その中でもリック天文台長キャンブル博士は、数回の観測の結果、太陽系は水星の内側には惑星は存在せずと、1908年にこの問題に終止符をつけた。又1929年であったか、英国の観測隊は南米での観測の結果アインシュタインの説による強大な質量の近くを通る光線は、引力のために変位するということを見事に証明した。その後日本の観測隊も、アインシュタインカメラによる日食観測に熱中した。東京、京都、仙台の各大学もこの観測を行ったが、仙台の松隈博士は、日本光学で作った20cmの反射望遠鏡を北見小樽清水にすえて観測し、直ちに測定して日本で最初のアインシュタイン説を証明したのであった。これと自分達のとった朝日新聞のトーキー、フラッシのスペクトルとは、この日食に於ける特異の産物であった。
 自分が着任以来、木村博士は大部分孤独の生活をせられた。そのため各所員はテニス謡曲、マージャンなどで慰めた。ところが自分は、このようなことは一さい趣味がなくてやらなかったので、甚だ薄情の如くに見えた。博士は書をよくし所員は皆な先生の字を軸や額にして喜んでいた。自分も人並に字を書いてもらい、官舎にかゝげたが、自分は書も全く素人で、見る目もほめる口も持っていなかった。自分位の悪筆の人も少いだろう。1939年は博士の稀寿祝である。事変中ではあるし大したもようしも無く、所員と家族で運動会をやった。この御礼として所員一同に、大きい扇の紙に寿という一字を書いたものを下さった。自分はこの始末にこまった。これを額にすると場所を大きくとって、官舎ならともかく小住宅などへはかかげることも出来ないほどであった。そこでこれはすぐ友人の所へ送ってやった。博士はこの時はすでに勲等も上位であり、文化勲章や英国王立天文学会の金メダルの保持者であり、功なり名をとげているので、この時の祝を潮時と見て勇退し、川崎技師を後任所長とすべきであったが、丁度この頃報告書第八巻の発行の準備中であったので、その始末をつけるまで退くことも出来ないと、思われたことであろう。
 そして1941年五月に40年の長きにわたる所長をやめ、水沢町民の盛大な見送をあとにして東京へ帰られた。在任中に自分の確めたいことが二つあった。その一は博士は観測中一度極光を見たといわれたので、自分の在職中には太陽黒点極大の年が二回はあったので、よく注意していたが遂に見なかった。他の一つはきつねの火ということである。雇用人の話によると、自分の官舎の屋根できつねの火が見えたことがあったという。又その男が一ノ関の宿屋の裏で、きつねが一と所で骨を食っていたが、火はそこより少しはなれた所にあったという。又自分が着任した頃、高層気流観測班が役所より一キロ位いの所の日高神社の方へ行く時、きつねの火を見ておいかけたという。然し自分は晴夜はいつも外にいて星をみていたのに、一度もきつねの火を見なかった。或る雪の朝、役所の建物の横にきつねの足あとがあるといわれて見たが、一線になった足あとがついていた。それできつねの来る夜のあること丈は知った。
 この日高神社の正月の祭に火防祭というのがある。大きい花台に子供が着かざってつづみをうち、はやしをやって数台が町をぬり歩く、美しい祭であった。水沢地方は有名な石器土器の出土地で、自分も一時その採集に出たものである。近くの福原部落は切支丹の遺蹟で、先年伊太利から大理石にラテン語の書かれた碑が送られて建っている。水沢出身の人物に高野長英、後藤新平、斉藤実などがあった。

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