更新日 2022.9.9
1941年というのは自分にとって最悪の年であった。盛岡高工在学中の長男が病床にあったが、この春女学校を卒業して東京女子専門学校に入学していた長女が、不幸にして伝染病で五月に急死した。これは非常な痛手であった。然し神は与え神はとりたもう。エホバの御名はほむべきかなというヨブの言葉で慰めを得た。1941年(昭和16年)12月8日という日は、日本国にとって未曽有の最悪日であったことは、今更いうもいやであるし、この日を思い出したくない。再びこの不幸が我が国土にのぞまないように祈る。自分も相当の年輩になり、これ以上務めていても大した業績も無いし、川崎氏が所長となられしを潮時と見て、1942年4月に退職した。自作の25cm反射望遠鏡は、隣町の前沢小学校に譲り役所には木村博士の意志を尊重する意味で、緯度変化に関係の無いものは一さい残さなかった。在職中所員特に官舎に住まわれし方々の、自分の如き無愛想者に対してなされし御親切に対しては、ほんとに感謝の言葉も無く、つきぬ思いになごりをおしんで水沢を去った。
在職中役所からの出張として、学術の会に出席させていただき、多くの見学旅行をなし得たことは、甚だ有難いことであった。学術協会札幌の会での観光見学では、登別温泉と千才ふ化場の見学、室蘭、輪西の鉄工所、とま小枚製紙工場等有益な見学があった。又新潟の会では佐渡見物と金山の見学であった。戦前では学術協会の大会のスポンサーは、地方の旧大名があったので大変よい集会が出来た。熊本の大会へも出張させてやると言われたが、甚だ残念ではあるが家庭の都合で、留守になることが不利であったから、この出張は辞退した。その他東京で行われた数学物理学会の総会には、三年に一回は出張させてもらえたことなど、大変有難いことであった。
東京では世田谷区上馬に旧友池上氏の和家を譲ってもらい、ここに二階の天文台を建てて10cm赤道儀をすえ付けて、変光星観測をやった。収入の面では、駒沢駅前に五藤光学という望遠鏡ブローカーがあって、そこで光学方面の手伝いをしていたが、光学品の製作をなすならばともかくもよいとしても、ブローカーでは、自分の性に合わないので甚だ面白くなかった。そのうちに戦争は日益に不利となり東京空襲が必至となり、政府は一般にそかいをせまり出したのを幸いと、五藤の方を辞めて44年の五月、郷里高知県佐川町に帰った。二ヶ年の東京在住の間の主なる出来事は、42年10月木村博士の逝去である。両国本願寺で学士院葬とかゞあり、午前十一時葬式、午后一時から告別式があった。自分は葬式と告別式の区別を知らなかった。どちらへ出席すべきかとまよったが、五藤氏と相談の上告別式に行った。寺に行って見ると、外の階段に一つおきに博士の友人等が片側に一人ずつ立っている。一寸威圧せられた感がしたが、いちいち礼をして通るのも甚だ面白くなく、二人位に頭をさげて堂内に入ると、暗い広いホールに香がけむっているのみで、何だかきつねにまよわされたという気がして甚だ馬鹿にされたような気がした。翌年川崎所長不幸にして永眠せられ、池田博士が三代目の緯度観測所長となり、戦後変動の波を見事に乗り越えて大発展し、世界第一の緯度変化研究所として重きをなすに至ったことは甚だ喜ばしいことである。
42年の春郷里の兄病没、十二月には兄の家督をついでいた長男が、戦車兵として満州に出発、自分は郷里で兄の山を開こんしていもなどを作る。45年三月に関釜連絡船もあと一週間で止まると言われし時に、一家こぞって満州へ出発してくれた農家が、家を譲ってくれたのでそれを買って転住し、畑二反位に麦といもを作って、生活のおぎないとなす。国民は戦況の与太発表にだまされ、勝つ勝つといっても誰言うとなくミドウエの海軍航空隊の全滅、ガダルカナル、レイテ南洋各地の敗戦に感づいていたが、口外すれば刑務所へうち込まれるのをおそれて唯だまっていた。広島、長崎へ新爆弾が落されたと聞いて間もなく8月15日となった。その日自分の家の前に濠を掘っていたが、部落の人が何をしちょるぜよと問うた。防空壕堀だと言うと、そんな物はもういらんぜよ、天皇様が今戦争は止めたと放送したげな、そりゃデマじゃ、日本の天皇が放送することは決してない、と言っているうちに皆が戦争の止んだことを喜ぶ者、おこって天皇をのろう者等勝手にしゃべったが、結局終戦でやっと気が楽になり開放せられた感であった。
弘安年間には蒙古兵の為に、北九州を土足にかけられしといえども、台風の御陰で弘安四年の夏の役には、蒙古勢をつぶすことを得た。昭和大戦には折角頼みとせし神風も、四万頓級の敵戦艦はびくともせず、七万頓の戦艦大和も二十数発の魚雷と爆弾には、何のなすべき術もなく、軍国最後の夢と消えて、遂に国土は英米軍の占領下におかるること八ヶ年、四つの島に九千万人がうようよとうごめき、国貧にして道義地に落つ。キリスト言いたもう。人新たに生れずば神の国を見ることを得ずと。国も人も同じである。如何にしてすくわれんかその事を知る、之即ち日本に課せられたる最重要の問題である。
1928年十月廿七日に自分の発見したすい星は、コジア山崎ホルベスと長い名が付いていたが、英国のクロムメリン博士の研究によって、週期が27.87年と言う天王星属のすい星であることがわかり、次の出現は1956年と決定され、名もクロムメリンすい星とよぶことになった。そして予報の位置に於いて1956年十月六日の朝、高知の関勉氏が日本では最初に発見してくれて、甚だうれしかった。
このすい星に関しては1928年の時には、神田茂氏が東洋学会雑誌45巻三月号に報告し、この度は天文と気象57年一月号に発表せられておる。この神田氏は天文界にもよく知られたるが如く、東京天文台の技師を長く務められ、軌道計算、変光星観測、東洋古文書に出た天文記録の研究等の大家であるが、当然とるべき博士学位もとらず、小惑星同定に於いても功績が多い。この点に於いては小惑星カンダの名を保持すべき人であるのに、天文台では時の台長と意見を異にした小問題の為に、天文台を追われたと言うことを聞いて、気の毒に思っていたが、今日は日本天文研究会長をして天文指導に当たっている篤学者である。
自分は東京天文台には他に知人は一人も無いので、二、三回訪問したのみであった。水沢に関係した人と言うよりは、観測所で自分で研究した人に山本博士がある。川崎技師の義兄に当たるので親しくなっているが、この山本博士は今批判するのは早いが、兎に角問題の人で、日本の悪習慣にしたがって出るくいは打たるるの組で、何だか気の毒な気がする。
天文に興味を持つと誰でも先ず望遠鏡がほしい。そしてカタログを取りよせて、その高価なるにおどろかされる。色々と長所ばかりのべているので、その選択にまよう。自分は長年実際の観測者であった経験から、注意したいことは、小中学生の生徒に買ってやるのは、大きさは5cm級の屈折経緯台が一番よいと思う。その望遠鏡は天体地上両用で、倍率も50倍でよい。望遠鏡屋は欧米では、小型の赤道儀を使用している者もあるが、之は小型のカメラを付けて星野写真でもやる者以外には、全く無益である。つられてはいけない。熱心なアマ又は専門家で太陽、惑星、変光星、すい星などの観測をする人は10cm屈折又は15cm~20cm反射赤道儀があれば、一生有益な観測をなしてたのしめる。
今日は写真玉も早いものが出来、それにフィルムもよくなったので、星座写真は一つの部門なったと言える。銀河の写真を一定の場所を定めて、月に二回位とっておれば、新星発見に役立つ。今日本にも中級の望遠鏡所有者がずいぶん居る。これらの方の多くは、友人知人に月や土星、星雲星団の美を見せて楽しむ位のものと思われるが、これは少しも天文観測の部には入らない。観測とは見てはかると言うことで、星の位置、光度その他を正確に測って、記録するようにせねばならぬ。人工衛星が通ったと報告したとて、観測にはならない。時間と赤道赤経赤緯が決定出来なければ、大して役にたゝないと思う。
自分はアメリカから帰るとき、天文をやったとて飯は食えないから、中等学校の先生をして好きな星を見ようと、決心したが、全く不思議な縁で水沢緯度観測所に奉職することが出来た。日本で小中学校の先生に、星に趣味を持つ方が多く出来てもらいたいと希望していたが、これは無理であることがわかった。先生方は夕方時間無しに務める。夕方五時と規定があっても、七時頃に帰る者さえあり、帰っても生徒の作文や図画を見て、甲乙をつけなければならない。愛知県立一宮商業高校の先生の山田達雄氏は、変光星観測者で友人であるが、天文に熱心で立派な天文学者である。こういう篤学の士が日本にも大分出来たのを知って甚だ喜ばしい。
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自分の相当長かりし一生をかえりみた時、右に廻り左に走り、得意あり失意あり、悲しみありしも、始終自分だけの意志でうごいたのではなく、自分以外の手によって導かれしことを知る。
私はこれを神の摂理であると感謝しているのであります。(終)
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