連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.6 4/5
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.9.16

≪解説≫

 「異色の天文学者・山崎正光 No.6 」には、My path in Astronomy(私の天文経路)の《5. 》を掲載した。ここでは、天頂儀が古くなってレンズが曇ってきたので交換したという話から始まり、1929年の木村博士の還暦のお祝、1933年の三陸沖地震、1936年の北海道皆既日食、1942年の緯度観測所退職と五藤光学勤務、そして、1944年に郷里の佐川町に帰り、その後、1956年10月6日の朝に、山崎氏の発見した彗星(クロンメリン彗星)の回帰を、関つとむ氏が日本で最初に検出した話、最後に天体観測の在り方を述べて終わっている。
 この天頂儀というのは、「異色の天文学者・山崎正光No.5」で山崎氏が説明しているように、ドイツのワンシヤフ製の口径100mmの天頂儀で、ドイツのバンベルピ、アスカニア社製の口径110mm、焦点距離1289mmのレンズに交換したということのようである。

(写真)緯度観測所の眼視天頂儀(V.Z.T.)(『緯度観測所のあらまし』より)

↑緯度観測所の眼視天頂儀(V.Z.T.)(『緯度観測所のあらまし』より)

 三陸沖地震については、「1932年三月三日の早朝、東北三県に大地震と津波があった。」とあるが、その後、鈴木技官の送ってくれた資料には、「昭和八年三月三日午前二時三十分頃岩手県釜石東方はるか沖に強震を発し、・・」とあるので、1932年はタイプミスで、正しくは1933年である。
 震源は、東経145°6′ 北緯39°6′で、地震の規模を表すマグニチュードは8.1である。国立天文台編の『理科年表』(2007,p.721)によれば、「震害は少なかった、津波が太平洋岸を襲い、三陸沿岸で被害は甚大、死・不明3064、家屋流失4034、倒潰1817、浸水4018、波高は綾里湾で28.7mにも達した。日本海溝付近で発生した巨大な正断層型地震と考えられている。」とある。
 地震といえば、2011年3月11日の「東北地方太平洋沖地震」を思い浮かべるが、私などは、根尾谷断層の写真を思い出す。これは、明治24年(1891)10月28日に濃尾地方で起こった激震で、マグニチュードが8.4という明治以降最大級の地震である。当時、理科大学の教授だった田中館愛橘が、学生2人を連れて現地に赴き、地磁気の変化等の実測を行った。そこで田中館愛橘は根尾谷の大断層を発見し、地質学教授の小藤文次郎の依頼により、写真師に指図してカメラの位置から構図までを指定して撮影させたのが、有名な根尾谷大断層の写真である。

(写真)根尾谷大断層の写真

↑根尾谷大断層の写真

 この時、写真師は、写真の技術が未熟だった当時、重い写真機や三脚などの機材を担いで、地震によって道路が寸断されている岐阜の奥地、根尾地区まで入り込み、後世に残るこの写真を撮ったのである。

 また、昭和11年(1936)6月19日の北海道皆既日食については、この「My path in Astronomy私の天文学経路」のつぎに紹介する、未発表の「天文日記 #2」の冒頭に詳しく語られているので、その時に解説することにして、今回は、山崎氏が自分達でとったフラッシュ・スペクトルの連続写真を紹介するに留めることにする。
 右側の写真は、バンベルヒ撮影機とPCL録音機に五藤光学製の光学系を組合せ、無線時報受信機に連継して千数百コマの一部でフラッシュスペクトル・トーキーフィルムとして学界最初の成功に係るものである。

(写真)活動写真トーキー撮影の成果

↑活動写真トーキー撮影の成果

 左側の写真は、五藤光学製150mmレンズにバルボ撮影機を組合せ、赤道儀に取り付けて撮影した数千コマの一部で、日食の経過を記録したものである。

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