更新日 2022.10.7
本記事の掲載にあたり、転載した資料の中には、一部、現代では不適切な表現が見られる部分もありますが、資料的な意義を考慮し、そのまま掲載いたしました。ご了承ください。
「思い出」
山崎貞伊
緑の候となりました。皆様愈々御健勝に渡られましょう。扨て山崎正光生前中は、種々御厚誼に接し又今回は、御繁忙中にもかゝわりませず、この様な御丁重な追悼号を、御作り下さいまして遺族一同まことに、感激致して居ります。こゝに思い出の二、三を、記して居ります。1919年七月七日に結婚しまして1959年五月卅一日まで40年という長い間朝夕を共にしました。最初は英語も天文も教わろうと考えていましたが、リーダーを手に勉強ということは一度も無く望遠鏡でも、何か特別現象の場合に見せてもらう位で、十回も有るか無しで、全く家庭向で終ってしまいましたが、子供達は英語、数学、地歴、理科と直ぐ教わって、喜んで居りました。歴史でも年号を一々暗記していたのには感心しました。お父様に聞けば間違いないと、話し合いました。
読書は非常に好きで常に書物を手にしていました。趣味という程ではありませんけれど、良く油絵を画きました。今でも気に入った絵を二、三枚のこしてあります。又写真機を持ち歩くのが好きで、よく写しました。子供達にもアルバムを一人一冊づゝ作ってやりました。良い父の記念となることでしょう。
「身はたとひ千里別れてくらすとも、常に思へよはらからの身を」と一頁に記してあります。
誕生日、クリスマスを祝する事は、毎年の例でした。誕生日には赤飯を使いましたが、クリスマスには、鳥の丸焼きを作り御ちそうどっさりでした。日曜日には家族連れ立って、名所を見学して歩きました。
五月雨の降り残してや光堂
名高き平泉の金色堂を初め、藤原氏の栄華をしのぶ毛越寺、近代美をほこる花巻温泉、日本三景の松島湾の舟遊等、数々の思い出を残しました。昭和19年四月に、一同は故郷の佐川町に帰りました。健康の続くかぎり、農作の生活を営みました。この間、可愛い孫達を五人も得ました。孫達をよんでは、アラビアンナイトを面白く聞かせていました。
私も側で、何時の間にこの様な書物を読んでおかれたのかと感心し乍ら、一緒に聞いていました。
七十有三年の生がいを終り、今や故山にあって地上に於ける思い出をしのびつゝねむって居ることでしょう。積もる雪の消える如く、流れる水の行く如く再び眼見えることなく。唯面影をしのぶのみとなりました。
山崎に心を御寄せ下さいました皆様方の御健康を祈りつゝ御礼を申し上げます。
七月十日
「山崎正光氏逝く」
神田 茂(日本天文研究会)
山崎正光氏は最近多分6月中旬に高知県佐川町の自宅にて73才をもって逝去された。山崎氏は大正8~10年頃アメリカ、カリフォルニア大学の天文学科に学ばれ、当時の天文月報第12巻11号(1919年11月)に「カリフォルニア大学天文学科」、同誌第14巻第8号(1921年8月)から第15巻第3号(1922年3月)まで7回にわたり「反射望遠鏡の製造法」という論文を発表しておられる。
その後の論文によれば、ハレーすい星の出現の頃8吋の反射望遠鏡の自作を計画し、その後12吋、15吋も作った。12吋鏡は当時岡山県吉備郡新本村のドクトル橋本修吾氏がもっておられる筈とあるが、その方はどうなっているのであろうか。これによって中村要氏に先だって山崎氏が日本で反射鏡を製作されたことと思われる。後に反射望遠鏡の作り方の著書も出しておられる。帰朝後京都大学に講師としてしばらくおられ、それから水沢緯度観測所技師として十数年間勤務された。その勤務のかたわら変光星の観測や、すい星の捜索を試みられた。1928年10月27日明け方しし座に光度10等の一すい星を発見されたが、その後曇天のため確認できず、11月21日に南アフリカのフォルベスが独立に発見し、山崎フォルベスすい星とよばれた。これは今日クロンメリン周期すい星とよばれている周期28年天王星属すい星である。山崎氏はこの発見により、太平洋天文学会から予期せざる新すい星の発見者としてドノホー賞牌を受けている。氏は日本人初の同賞の受賞者であった。
山崎氏は緯度観測所をやめてから、数年間五藤光学研究所におられたが、戦時中故郷の高知県に帰られ、天文生活とも一応遠ざかっておられたようである。しかし最近数年間愛知県の山田達雄氏と文通があり、同氏の6吋鏡も山崎氏の使われたものであるとのことである。山崎氏の御逝去も6月15日付で、山田氏からお知らせを受けた次第である。最近5年間ばかり本会会員として、総報、回報、速報等お送りしていたが、本年1月都合により中止してほしいとのお便りで、御病気のためかと思っていたが、今訃報に接してこの小編を執筆して追悼にかえる。手許の資料と記憶によったので不備の点はお許しを願いたい。
「山崎さんを偲ぶ」
石川栄助(岩手大学助教授)
山崎さんの御他界の報をうけて、すぐに浮かんだのは「山路越えて、ひとりゆけば・・・・」と歌われた山崎さんの姿である。
昭和二年の春、入所して間もないたそがれの頃、南観測台からもどってくると、観測室からかの讃美歌を歌いながら、異様な帽子をかぶって出てきた人こそ初対面の山崎技師であった。その姿は今も眼に残っているのである。当時は技師の方は所長と池田紀章課長、川崎観測課長及び、山崎さんの四人だけであって、我々はこの四人を最高の天文学者としてどうけいしたのであった。特に緯度を観測する川崎、山崎の両技師は山と川の名コンビとして有名であった。池田課長には毎日の仕事の外に、数学や気象の御指導を受けた。また木村所長や川崎課長からも時々お話をいただくことがありました。しかし山崎さんには殆んどお逢いする用事もなかった。
たまたま御手製の反射鏡で土星や火星、木星、月等を観せていただいたこと、変光星や新星の観測の連絡に上る程度であった。その頃師は「反射鏡の作り方」を出版され、1928年10月に自作の望遠鏡によって山崎すい星を発見し、ドノホー賞をいただかれた。町の人々は彼の師を観測所の典型的なタイプと目していた様であった。お室はいつも暗くなっていて、時々はゴシゴシとレンズをみがく音がもれていた。所用あってお室の戸をノックすると、一回、二回では返事されなかった。三回程ノックすると、ようやく「ホーイ」と低くつぶやかれ、不機嫌なのかと、おそるおそる用件をきり出すと、快く応答され、様々の注意をつけ加える等で感激したものである。特にお世話いただいたのは放課後の英文法の講義であった。山田さんの本でアメリカ仕込みの要領のよい講義は今も思い出となっている。
昭和6年頃であったろうか、学術調査ということで初めて東京に出張せられた時、安彦兄と共に川崎さんに五藤光学研究所に案内された。様々のレンズを見せていただき、初めて見る望遠鏡製作の第1線の現場に驚嘆したのである。なおここのご主人五藤齊三氏は土佐の生まれで、山崎さんと同郷の曲も承った。それから間もなく或日山崎さんに呼び出された。おそるおそる参上すると「東京の五藤光学でおむこさんが欲しいと言っている、君は行く気がないか」とのこと、余りの突然のことであったし、相手が有名な五藤光学なので、しばらく返事に当惑したのある。自分の姓を変えるのに快く思っていなかったし、田舎者の自分はどうして第1線の光学研究所に務まるか、東京には自分以上の人物はザラに居る筈、我身を考えて「折角ですが、おことわりします」と心ならずもかく申上げたのであった。しかし当日は観測しながらも快く、寒い正月であったが、南観測台の小屋の空をめずらしくトビが白い腹(羽根の裏)を見せて天かけていたのも吉祥の様な気がし忘れ難い風景であった。
時々天界や天文月報の表紙裏等に五藤光学研究所の広告が出ていると、何時も山崎さんのことがしのばれ、もしもあの時、調子よく事をすゝめたなら運命はどうなっていたのであろうかと夢を追いながら山崎さんをしのぶのである。
遠くから「山路越えて、ひとりゆけば・・・・」の讃美歌が聞える。山崎さんは歩きなれない足どりで天国への道を静かにたどっておられる様な気がする。
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