連載 星夜の逸品 -児玉光義-

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異色の天文学者・山崎正光(第一部) No.7 2/4
~日本人として初めて新彗星を発見し、日本に最初にガラス製反射鏡の研磨法を伝えた学者の生涯~

更新日 2022.10.14

  故山崎正光先輩をしのぶ

――故人と旧知の緯度観測所員有志が集いて――      

A:  山崎さんはたしか1924年の1月には当所に赴任して来られたように山崎さん御自身の自叙伝にも出ていますが赴任した頃のことについての記憶はどうでしょうか?

B:  あまりはっきり憶えていませんね。あの当時の高等官技師といえば雲の上のようでしたからな。

C:  私が記憶している限りでは、なんでも赴任されて間もなくの頃サッサと工場にきていきなり例の早い口調で「此処で何が製作出来るの?」とたずねられたことがあった。何しろ英語がちょいちょい入って来るし、土佐弁だし、おまけに単刀直入のブッキラボウだし、最初のなれないうちは返事のしようにもしばらく考えちゃいましたよ。

C:  反射鏡やレンズの研磨は就任されてのちの翌年から早速始まっていて、それから2年位経ってからマウンティングの方に進みましたね。たしか8吋(20cm)でしたよ。

A:  山崎さんは1924年から1942年迄の18年間の長い年月、国際共同緯度観測を続けられたわけですが、観測のことについてどなたか?

D:  山崎さんの観測は思い切りのいゝ、歯ぎれのいゝものでしたね。一見晴れた夜でも星のイメージが悪いときは観測を無理して強行してないようでしたね。とにかく根っからの観測家タイプでしたな。

C:  山崎さんは鉛筆をペンシルといっておられましたね。赴任した初めのうち、私共は当時のアメリカ帰りというので、いくらか畏敬と好奇の眼で迎えましたが、実際の風ぼうはあの通り村夫子然としてましたから二度びっくりしたわけでした。

A:  山崎さんの有名なすい星発見の時の苦心談はありませんか?

C:  よく緯度の本観測が終ってからもひとり残って夜が明けるまで4吋の広角赤道儀で掃天観測を実に根気よくやっておられましたね。写真も多数撮ってました。貴重な資料でしょうね。赤道儀の運転時計が不調で随分苦労しておられたようです。ボンの星図をルーペで見乍らあのすい星を発見したのですね。
観測中のことはなんでもよくメモしておいた方がいゝと言っておられました。

A:  次は山崎さんの天文活動のなかで見落すわけにはゆかないものとして1936年の北海道日食の時の様子は?

E:  あの時の成果はポピュラー・アストロノミーという雑誌に発表されてますね。たしか9.5ミリのパティー映画に風物も収めてこられた筈です。朝日新聞社からも林田とか三木とか一流のカメラマンが参加した。

A:  さて、それではこの辺で話題を大きく変えて、山崎さん在所中の趣味生活について想い出していただきましょか。

F:  先づ油絵をたしなまれましたね、自画像も画かれますが、よく似てましたよ。ゴッホ級かな。それから所員有志ではじめた南画の会にも第一期生として熱心でしたね。官舎のふすまに御自分の画かれた蘭の画がはってありました。

D:  四君子はとっくに卒業してた筈だな。

A:  四君子というのは一体何々ですか?

D:  松竹梅蘭です。

E:  松か菊か一寸どっちかだよ。

D:  蘭竹さわぎなどと、木村 栄先生早速下手なシャレをとばしたね。

E:  山崎さんは山羊をかっておられた。
いつか何かのことで山羊が死んだら、その皮をなめして毛皮のチョッキを作られた。土器にも大変興味をもっておられて考古学の講演をされたこともあった。アメをつくられたこともあるし、自分のミシンを使って洋裁をされたこともある。盆栽もお好きで、今でもT君の官舎の他に岩柴のはちを置いてゆかれて残っている。

F:  炭焼かまどまで自分で築かれたのはいゝが粘土はわらをまぜてかまどを固めたので、いよいよ火入れして薪をたきはじめたらかまどが燃えだしちゃった。(一同大笑)あれにはおどろいたよ。

E:  正月には技師さんの官舎に招ばれたのだが、山崎さんは、あれで仲々すみにおけないね。タクアンをつける漬物桶のふたの上でダンス靴はいてタップダンスを御披露した。黒人おどりと称しておられたが。

G:  山崎さんは大変子ぼんのうな方で、娘さんをなくされたときは全くガッカリしておられた。よく日曜日には家族連れで近こうえハイキングに行かれたようです。

D:  山崎さんは部下の人たちに対して思いやりが深く、不愛想な古武士的な風格のうちにもなんともいえぬあたたかみがあったね。

F:  よく「戦友」という軍歌を観測に行く途中で歌っておられたね、あの人間味ある軍歌が気に入ったらしい。

E:  辺巾をかざらぬというか、少し徹底しちゃって三角頭巾かぶって町にねぎ等の野菜買いもされた。何でも自分でやってみる人だった。

F:  中島弥団次(故人で政治家)と同郷で親友だったらしいね。

E:  あのおこっているようにぶっきら棒な話し方、それでいて誠実一方で、思いやり深い、風格はいまだに目に浮かぶ。いゝ人だった。

A:  敬愛すべき明治生まれの大先輩を失って、私共はたしかにがっかりした。当初も先生在所中とはちがって規模もずっとおおきくなり、所員もふえたが昔のよき時代のよき人々をなつかしむと共に、更に先輩の遺された学徳と人徳をしのんで明日えの前進に資し度いものです。
では大変ありがとうございました。この辺で。
        (終り)

(テープ・レコーダーより要約)      



  山崎さんを憶う

山田達雄  


 死、死、それは誰れの身の上にも蔽いかぶさる運命である。でも思いがけぬ山崎さんの訃報に接した私は全く夢ではないかと疑った。それも直接山崎さんの御宅からではなく、平岡さんを通しての報せであったから‥‥‥‥‥‥でもそれは矢張り現実であった。
 ギリシャ神話のオルフェウスの話ではないが、私が若し琴の名手であれば、冥府の国のPlutoとかけあってもう一度この世へ連れ戻すことが出来たかも知れない。
 山崎さんと私との交りは、もう20年も前に逆上ります。私が1938年に初めてA.A,V.S.O.に観測報告を送った頃、山崎さんから励ましのお手紙をいただいたのにはじまる。当時中学生であった私は山崎さんの名は著書で存じておりましたが、故小沢喜一兄から山崎さんが変光星の熱心な観測者であった事を承り、その後手紙の交換をしておりましたが、第二次大戦は二人を疎遠にしてしまい、山崎さんの住所をたずね、それから山崎さんとの交りは再開されたのです。お互い手紙が到着すると折返し返事をかくという交友を続けておりましたが、最後迄山崎さんに遇う機会を持ち得なかったのは呉々も残念に思っております。
 山崎さんも在京中天文書籍等殆んど手放されてしまわれ、長らく病床に居られた時など退屈だと思いSky and telescopeのバックナンバーをお貸ししたこともありました。
 私は山崎さんからいただいた二つのものを形見として大切にしています。その一つはKingの書いたA Ma- nual of Celestial Photographyで、この本は1938年に神戸の射場さんから山崎さんに贈られた本であるがこの本のとびらに、

Sinainaru Yamada San
Kono Hon wa Watasi ga Tentai Syasin wo yatteita toki Iba San kara itadaita mono desu ga anata ga sekidogi wo motareta naraba Tentai Syasin mo yarareru koto to Omoimasunode nagai aida AAVSO no Kaiin tosite tukiatte itadaita Kinen to shite kore wo sasiage- masu.
          1954 3 gwatu 12 niti.

Yamasaki Masamitu.     


とローマ字で書いて私に贈って下さったのです。山崎さんはこの本を実によく読まれ、本の余白には、ローマ字や英語でフィルム及び薬品のデーター購入先等細かい字で一杯に記入されており、如何によく研究せられたかが伺われます。又手紙によりますと全天掃写の仕事もされたらしく、エネルギッシュな所が伺われ又対物プリズムを磨いて分光写真もとられましたが、それ等のプレートは現在はどのようになっているかおたずねする機会がありませんでした。
 山崎さんからいただいた第二の記念品は山崎さん研磨になる6吋鏡です。これは昨年私がメッキに出した6吋鏡(故小沢喜一兄愛用品)がアストロの争議でなくされてしまったので悲嘆に暮れていた時、山崎さんから手紙に“あなたには借受がある、私の磨いた6吋鏡があるので貰っていただけますか”と余りにも厚顔しいと思いましたが、いただく事になり今尚このミラーを使用しておりますが、これからも大切にして変光星の観測に使用していきたいと思います。
 昨年夏頃私が山崎さんにロシア語の勉強をすゝめた所、一度やってみたいと言われたのでPotapova Ru- ssian やNHK及び日本短波放送のロシア語講座のテキストを送ってあげた所、よく勉強しておられたようで、NHKのテキストを続けて送っていた所、遠慮せられて、もうやめてくれ、と再三言って来られて却ってお気毒の様な気がいたしました。
 この2、3年間平岡さんとお友達になられ宇宙誌に自伝My path in astronomyを連載又完結されたことが、忘れられない事でしょう。これにより山崎さんが他のプロ天文学者と異なった苦難の道を歩かれた事が伺う事が出来ると同時に山崎さんという人間を知るよき記念碑になると思います。  昨年12月豊橋の金子 功氏が山崎さんを訪れ色々対話をテープにとって来られそのcopyをいただき水沢赴任当時の話、観測、帰郷された話、高知県の勤評闘争の話題等が入っており、時々テープレコーダーにかけて山崎さんをしのんでおります。又その時金子氏のとられた数葉の写真と山崎さんの死の2、3日前にお書きになった手紙を前にして合掌して今迄の御交誼を謝し、御冥福をお祈りいたします。


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